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2025年10月14日

フィリップ・ブーリン演出「リア王」

昨日新宿ミラノ座で上演された「リア王」は、何せタイトルロールが大竹しのぶ、老いたリア王を虐げる長女のゴネリルが宮沢りえという異色の配役で、当初は正直いささかコワイモノ見たさのような気分で行ったのだけれど、実際に観るとこの作品に対するイメージがだいぶ変わって、それなりに有意義な観劇体験だったといえるし、芝居は配役によって左右されるところが大きいのを改めて感じたものだ。
これまでのリア王というとやはり大柄な男優がイメージされて、かつては英雄だったはずの男が老耄によって判断を誤り、坂道を転がり落ちるようにして人格が損なわれ、ついには精神に異常を来して放浪するといった展開だったような気がするが、女優でも小柄な大竹の演じるリア王は最初から不機嫌で弱々しい男に見えるし、末娘コーディリアの正直なコトバに激怒するのも既に精神を病みかけている兆候と受け取れた。これはヴァイオリンとチェロとドラムによる洋楽の下座ともいえそうな生演奏のBGMが不穏な空気を漂わせたからで、このシーンに限らず洋楽下座は芝居全体に緊迫感や躍動感を与えるのに頗る有効だった。
今回リア王と並ぶ主人公に感じさせたのは宮沢りえのゴネリルで、現代劇のようにリアルなセリフ回しがこの役をお定まりの悪女ではなく、序幕からラストまで一貫して理が通った人物に見せ、妹リーガン役の安藤玉恵の好演と相俟って、同じ姉妹でも全く違ったキャラクターであるのを印象づけた。ラストでコーディリアと共に二人の死骸が並んだシーンでは、この作品は実は三人姉妹の芝居だったのか!という感慨を催したほどで、おまけにリアを演じたのも女優だから、全体に女性上位の舞台に仕上がっていたのも、近年ジェンダーレスや多様性を強調してきた英国演劇の演出家らしい試みだったのかもしれない。
これまでに観たリア王劇は、リア王の転落をまるでなぞるようにして破滅するグロスター伯が盲となり、彼によって追放された長子のエドガーとそれとは知らずに再会する件がまるで歌舞伎の愁嘆場のような見せどころだったはずが、今回はそれが案外サラリとかわされているのも配役のせいなのだろうか。もっともエドガーの役は仲谷昇や津坂匡章で観ても余り感心しなかったので、近代劇以降の演技術で表現するのは難しい役なのかもしれない。片やグロスター伯の妾腹の子エドマンドは王女二人を誑すほどの男の色気を感じさせる役で、蜷川初演時の林隆三がわたしには印象深く、今回の成田凌は心の屈折が色濃く滲み出て現代的な人物像を造形していたものの、色気の点でイマイチだったのは、女性上位芝居の煽りを喰った恰好なのだろうか。
男優の役で逆にフィーチャーされていたのは勝村政信の道化役だ。この芝居のまるでMCみたいに幕開きと幕切れはセンターに登場し、この芝居が人間の老いをリアルに描いて、それが今日の先進国における少子高齢化社会の最も重要且つ普遍的なテーマである旨を原作にはないセリフで言うなどして作品の現代性を強調したが、その分わかりやすくなったものの、原作の持つ不条理劇のような味わいは薄めたように思う。


コメント (1)


柴田錬三郎賞受賞、おめでとうございます。この機会に「一場の夢と消え」を読み返してみようと思います。
「リア王」、大竹しのぶという配役に戸惑いつつ興味はわきましたが、まだ観ていません。今朝子先生の感想を読ませていただき、やや脚色が過ぎるのかなあ、と感じています。
今週「焼肉ドラゴン」5度目の鑑賞。また泣いてしまった。舞台の面白さがギューッと詰まった作品です。
翌日「チ。」鑑賞。アニメとマンガでどっぶりはまっていたので、ミュージカルになると聞いてあの膨大な量と内容をどうやって舞台にに落とし込むのか興味津々でした。脚本の長塚圭史さんの苦労が伝わってきました。最前列でしたが、水がかかるかも、とビニールが用意されており、鴨川シーワールドのシャチのショー気分も味わいました。

投稿者 マロン : 2025年10月18日 11:48

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