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2025年07月10日

井上八千代の会

昨夜紀尾井小ホールで催された「井上八千代の会」は当代家元が五世八千代襲名後初の東京公演とあってキャパ250の同ホールだとチケット入手も困難な状況だっただけにいささか勿体なく、せめて国立小劇場ありせば…といった気持ちにまずならざるを得なかった。ともあれ座敷舞いには恰好の舞台空間といえるのかもしれず、お辞儀した姿勢で幕が開いて半身を起こした瞬間、当代の八千代が祖母の先代四世八千代そっくりに見えたのは驚いた。幕開きの演目は義太夫節による「萬歳」で、井上流はふつうこの演目を地唄で舞い、〽徳若に、御萬歳と…以下の件りはわたしが以前に習った地唄のそれとフリもそう変わらない気がした。つまりは、わたしが習えたくらいの初心者でも出来る易しいフリであるにもかかわらず、当代八千代の舞いぶりは、ああ、コレはこんなに面白い舞いだったのか!と感嘆させられ、改めて当代もまた名人の域に近づきつつあることを思わずにはいられなかった。当代は先代と違って弁が立つので、続く「対談」でもほとんど独りで話すかたちだったが、やはり井上流の見方というか、どこをどう鑑賞すればいいのかまでは本人の口から話せないのも無理はないけれど、現代の観客にはそこが巧く説明されないと井上流の凄味は伝わり難いだろうと思う。かつて武智鉄二師はいわゆるナンバの身ぶりが多い井上流を身体の裡に溜め込んだエネルギーの勁さといった点で高く評価したが、その揺るぎない身体の構築と切れ味の良さが当代の身上でもあって、少なくとも「萬歳」は座敷舞いというコトバでイメージされる情緒的で嫋嫋とした女性の舞踊とはおよそかけ離れているのは体感した者しか理解できないところかもしれない。最後に舞った「水鏡」はいかにも座敷舞いらしい静謐な演目ながら、これもまた情緒ひと筋ではいかないところが当代の真骨頂というべきか。水鏡に映しだされた自身の心情を纏綿と綴るかに見えながら時にハッとするような客観もして皮肉な味わいの舞いに仕上がっていた。ほかに当代の後を継いだ長女の井上安寿子が地唄で「鉄輪」を、長男で父の後を継いだ観世淳夫が同じく「鉄輪」を仕舞いで演じ分ける趣向があったのも面白かったし、安寿子の舞は網代笠を手にした前半の道行が素晴らしく、出だしの運歩はまるで中有の闇を踏むがごとくに見えたものの、後半の生霊となってからの件りでは執拗な情念のエスカレーションといった感じまでは見受けられなかったのがいささか残念だったとはいえ、今後に大きな期待を持たせた舞台でもあった。


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