トップページ > ハムレットQ1

2024年05月15日

ハムレットQ1

まずタイトル「Q1」のQからしてわからなかったので、同行した内山さんに尋ねたところ、シェイクスピア戯曲のFとかQとかいうのは印刷された台本の判型を指し、数字は印刷年代を意味するらしいと伺ったが、それについてプログラムにも全く触れていないのは余程の常識であり、単にワタシが無知なんだろうか?と案じた次第(^^ゞともあれ、ふつう上演されるF1に比してQ1はダイジェスト版で、それも余りスジの良くない台本と見られていたようだから、今回は敢えてそれを上演することの是非が問われ、且つ主役ハムレットを女優の吉田羊が演じる取り組みにおいても刺激的な舞台といえるだろう。その吉田羊はタカラヅカ的な男装の麗人といったふうではなく、極めてナチュラルにニュートラルな存な在感を発揮することで違和感なくナイーブな青年ハムレット像を表出していたのが印象的だ。ナイーブな点ではオフィーリアを演じた飯豊まりえも出色の出来映えだったし、吉田栄作が演じた悪王クローディアスまでがなぜか意外にもナイーブな人間に見えてしまう舞台でもあって、先日観たばかりのさい芸版「ハムレット」が劇全体をハムレットの心象風景にも感じさせる、いわば一点透視型の舞台だったのに対し、このQ1は登場人物が各自の人生を生きながらストーリーがすっきりとわかりやすく進行する舞台といえるのだけれど、如何せん、どこか喰い足りなさを感じさせるのはやはりダイジェスト版だからなのかもしれない。この点は「ハムレット」という芝居に何を求めるかが人によって違うだろうから何が正解ともしがたいけれど、独白の多いハムレットは観る人それぞれの様々な近現代人的な思い入れを可能にして来たがゆえに、長らく今日まで命脈を保ってきたのかもしれないな〜というようなことを改めて今回の舞台で逆説的に考えさせられたのだった。


コメント (2)


彩の国版柿澤ハムレット、観てきました。今まで観たどのハムレットよりも、ハムレットがひとりの人間として自然に感じられた気がしました。今朝子先生もブログで書いておられた囁くような台詞まわしが感情移入に繋がったのかもしれません。シェイクスピア劇と言えば、役者が声量MAXで膨大、難解な台詞をぶつけてくるイメージがあったのですが(そしてつい心の中で、頑張れー、頑張れー、と応援してしまっていたのですが)、今回は内容がスッと入ってきました。柿澤勇人は浄瑠璃の語り手だった曾祖父の血を受け継いだのか声がよく通りました。またホレーシオ役の白洲迅を始め若い役者さん達も台詞が聞き取りやすく、ストレスが少なかった。
客席を巻き込む吉田鋼太郎の演出も健在で、劇中劇のシーンはハムレット、王、王妃等が客席側で観劇し、来場者も劇中劇の観客に。これも楽しかった。
柿澤勇人=ミュージカル俳優、と思っていたのに、三谷幸喜の舞台「愛と哀しみのシャーロックホームズ」、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の実朝、など次々に可能性を広げて行き、遂にこのハムレット!カッキー、すごいよ( ;∀;)
最後の花束がボトンボトンと落ちてくる演出は今朝子先生のブログで予習はしていましたが、思った以上にボリューミーでしかも役者さんの近くをかすめるため、当たったらムチウチだぞ、と心配になりました。

投稿者 マロン : 2024年05月16日 09:34

今朝子さまと同じことを、私も思ったことがあります

故宮博物館展とかで、清朝の最後の方の皇帝関連の文書というのか、立派に表装されたもので、その内容が、ほんとに台頭という言葉の通りに、皇帝のお名前から始まる文章が2文字分くらいぴょこんと飛び出てる書き方で、
「おぉ、本物の台頭だ!」
と思って見ましたが、
解説文のどこにもそういう記述は無くて、何でだろうなぁと不思議でした
ついでに言うと
蘇州博物館と隣り合わせの太平天国忠王府に展示してある文書も、台頭の形式で書かれているけど、普通に人の手で書かれたものだから、印刷文のようにまっすぐでなく、ちょっと曲がってるけど
故宮のは、もう、印刷のようにキッチリ美しく整っていて、なんというか、こっちは科挙に合格した人ので、
太平天国の方は科挙に落っこちた人の書いたものだったんだなぁと妙に納得してしまいました

投稿者 せろり : 2024年05月17日 08:36

コメントしてください




ログイン情報を記憶しますか?


確認ボタンをクリックして、コメントの内容をご確認の上、投稿をお願いします。


【迷惑コメントについて】
・他サイトへ誘導するためのリンク、存在しないメールアドレス、 フリーメールアドレス、不適切なURL、不適切な言葉が記述されていると コメントが表示されず自動削除される可能性があります。