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2024年05月08日

彩の国シェイクスピア・シリーズ2nd版「ハムレット」

故蜷川幸雄演出で続けられたシェイクスピアシリーズが吉田鋼太郎に引き継がれての第1弾とあって注目された今回の「ハムレット」は意外なほど、というより当然のごとく非常に真っ当な演出で、この作品の現代にも通じる普遍的なセリフ劇としての素晴らしさを久々にストレートに訴えかけた上演のように思えた。それは今や TV でもメジャーな人気俳優となった吉田鋼太郎が、シェイクスピア・シアター出身の原点に立ち戻って戯曲と誠実に向き合った結果ともいえるし、またそうした演出のホンキを受け止めてタイトルロールの大任を果敢に果たした柿澤勇人の勝利ともいえそうだ。とにかく柿澤ハムレットは近年観たさまざまな俳優による同役の中でも極めて高水準に位置づけられる大健闘で、それには彼の声質の良さも功を奏した恰好だろう。今回はセリフ劇としても現代的リアリズムが貫かれて、例えば役者が客席に向かって独り言を呟くような所謂アサイド(傍白)を囁き声で客席に聴かせるといった至難のワザが頻繁に行われ、かの有名なTo be or Not to beのセリフまで同様の囁き声で聴かせるようにしたのは役者泣かせの演出ともいえそうだが、柿澤は息の鋭さで何とかそれを乗り切った。セリフのみならず佇まいの静謐さにおいても新たなハムレット役者の誕生を印象づけた。今回はBGMも不穏な不協和音に終始してセリフを聴かせることに重きを置いた演出だったが、残念ながら全ての役者がその演出意図を体現し得たとはいい難く、ややともすれば息の鋭さよりも、息が洩れてがなり立てるほうに傾くきらいがあったのは否めない。演出と出演を兼ねた鋼太郎自身もその傾向が見られ、優れた俳優でも演出をすると演技者としての自己を毀損する恐れが生じるのは何とも皮肉な話である。過剰なセンチメンタリズムを排し純然たるセリフ劇として蘇らせた今回の演出は蜷川バージョンに比して視覚的に地味な印象ながらも、カーテンコールの盛んなスタンディングオベーションで観客の充足感は証明されたといっていいだろう。ちょっと気になったのはエンディングで、天井から黄色い花束をボトンボトン降らす幕切れは、蜷川に対するオマージュだとしても、いささか蛇足だったのではなかろうか。


コメント (1)


私的な都合(体調で不良で)舞台を拝見出来ない者として、吉田鋼太郎演出の全体像が鮮明に浮かんんでくる素敵な劇評に敬意を表します。一点だけ、釈迦に説法ですが、シェイクスピア劇(少なくkとも原文)では台詞の傍白(アサイド)と独白(ソリロキー、soliloquy)は区別されています。舞台上での複数での囁きは傍白で、一人が観客に向かっては独白です。

投稿者 関場理一 : 2024年05月12日 07:05

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