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2024年03月21日

ショーン・ホームズ版「リア王」

昨夜東京芸術劇場で観たショーン・ホームズ演出の「リア王」について翻訳家の松岡和子さんから「今回は反応が真っ二つというか、賛否両論なのよね」と事前に聞かされていたのだけれど、実際に観てさもありなんと思いながら、この劇に関して何かと考えさせられたものである。わたしが中学生の時に初めて観た舞台は芥川比呂志主演の新劇バージョンで、次に観て印象深いのは蜷川初演出・市川染五郎(現・白鸚)主演だが、他にもいろいろと観た記憶があるから、これは日本で非常にポピュラーなシェイクスピア劇であり、黒澤映画の「乱」にもなったくらいにストーリーが浸透している作品だと思われる。で、老いた王が娘に背かれて流浪するこのドラマを、日本ではいわゆる貴種流離の芝居と認識して好んできた傾向が強いような気がするため、今回主演の段田安則はおよそ「貴種」がニンに合わない俳優なのが当初は強く懸念されたのだけれど、今回の「リア王」で私はそれがいかに一面的な認識に過ぎないかを気づかされたように思う。今回は無機的なオフィスのような舞台装置で劇中にやりとりされる書状もOHP画像で映しだされたりと、衣裳も含め敢えてチープな現代化が図られているため、そこに登場するリア王もまるで韓ドラに出てくるような同族経営企業の社長然として、古典悲劇を担うべき貴種には全く見えてこない。従ってその種の純然たる古典悲劇を期待する向きは落胆されるだろうし、前半はことに現代化の陳腐さのみが目につきやすいが、代わりに後半は俄然この作品の不条理劇的な側面に光が当たって本当の意味での現代性が強く滲み出てくるのだ。前半は曖昧に感じさせる段田のセリフも後半では実に明瞭に普遍的な意味を持つコトバとして聞こえ、リアを単なる古典悲劇の主人公では終わらせない力を発揮する。今回はまた長女ゴネリルを江口のりこ、次女リーガンを田畑智子というクセ強のキャスティングにして姉妹のキャラの違いを際立たせることで、姉妹が殺し合う後半の不条理な展開にリアリティを感じさせて現代の人類社会における家族制の崩壊をも暗示させる効果を持った。ところでこの作品を従来通り貴種流離の古典悲劇と見た時は、その貴種を演じるにふさわしい俳優が現代だとなかなか見つからないもんだが、そもそも昔のような「貴種」という存在を感じさせる人物が今や現実でもなかなか見当たらない気がして、本場でも「チャールズ、はあ?」てな感じではなかろうかと思うにつけても、今回の「リア王」は人類社会が大いに変容した現代に古典劇を上演する方法の好例として評価すべきなのかもしれない。


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