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2021年06月09日

桜姫東文章 下の巻

昨日歌舞伎座で観たのは第2部『桜姫東文章』の「下の巻」。4月の「上の巻」で往年の玉孝コンビのみごとな復活劇を目の当たりにしたら、今月もゼッタイ観ないわけにはいかないわよ的コアな観客に満ちた劇場が、これまたみごとな求心力を発揮して、今回も「スターのふたり芝居」といえる舞台を大いに盛りあげていた印象である。それにしても作者の四世鶴屋南北は当時それを意識したわけでは全然ないだろうけど、フェミニズム思潮が再び強まる現代にこの作品を観ると、ヒロインの桜姫はまさに男性からも子供からも解き放たれて自由奔放に且つ凛々しく生きる女性の一典型モデルのように映じるのが面白いというべきか。何しろ彼女はマジメで一途な余り死後も幽霊となってしつこくストーカーを続ける僧の清玄を悪態で一蹴し、片や処女を奪った好い男の釣り鐘権助もヒモに成り下がったあげく悪事で出世を狙うダメ男と知れば、その間に出来た子供もろ共わが手で刺殺してしまうのであった。世界広しといえど、こんなドラスティックなストーリーを爽快に見せる古典劇のヒロインって他にいないんじゃないの(?_?)と改めて作品の斬新性に感じ入ると同時に、それを観念的にではなくリアルに肉化し得たふたりの役者に賞賛を禁じ得ないのだった。ところで年齢の割に玉三郎の音声がほとんど衰えていないことは前回も指摘したが、音域が広いのも彼の声の素晴らしさであって、今回の桜姫は公家のお姫様という上流階級と、私娼窟の女郎という下層階級のコトバをちゃらんぽらんに混ぜ込んで使う役だけに、音域の変化でそれを巧妙に表現していたのが記憶に残る。「岩渕庵室の場」で桜姫が半死半生の清玄に迫られての立ち回りは、正直ふたりとも若い時のような体のキレとかタメがいささか不足しているように見受けられたとはいえ、「山の宿権助住居の場」で権助の素性が知れて桜姫が殺す決意をするまでの描き方は若い頃よりずっと丁寧に演じられて、この芝居のバックボーンを外してはいなかった。かくして艱難辛苦の末にというよりも、自由奔放に飛びまわっていた彼女が元通りの身分に納まるラストは、まるでお姫様が長い夢(ナイトメア)から覚めたようにも、また一人の女郎が見る夢(ドリーム)のようにも受け取れるところがいかにも日本的、アジア的なドラマツルギーといえるのかもしれない。ちょっと気になったのは「岩渕庵室」の場の暗さであり、いくらホラーなシーンでも昔見た時は照明をあんなに落としてはいなかったはずで、だから蛇腹の経本を使った立ち回りのキマリがもっとはっきり美しく見えた記憶があって、歌舞伎の古典演目の場合は照明を落とすにも限度があったようにも思うし、そういう点は今どきのスタッフや制作陣や劇評家の記憶はどうも心許ない気がして、戦後歌舞伎の照明の基盤を築いて今はあの世にいらっしゃる相馬清恒氏に伺いたくもなったのでした(^-^)/


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