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2021年02月13日

焼きそば、ミネストローネスープ

近所のマルエツで春キャベツが1玉98円、中華蒸しそばが3玉98円という安売りをしてたので、要するにこれを作れってこと?というわけでこのメニューに(^^ゞスープは市販のレトルト。
コロナで良かったことは「川上」の料理が自宅で手軽に食べられるようになったことですが(^0^;) 東京オリンピック招致で良かったことはコネと根回しで成り立つ日本の長老型社会がようやく終焉を迎えそうなことかもしれない、と思わせた森クンの後任指名がパアになった一件である。パアになったのは森クンも川淵クンも長老型の密室政治をするには軽薄にぺらぺら喋り過ぎるからで、かつて長老型の密室政治を成り立たせた連中とは人間の出来が違うんだよね〜と良い意味でも悪い意味でも思わざるを得ない。それが成り立ったのはせいぜい野中広務あたりまでだろうか。
年寄りをバカにするな!的な怒り方をと森クンはしてらっしゃるが、言っちゃァなんだかワタシが若い頃は同じ昭和生まれの森クンも年寄りではなく中年のオジサンだったわけで、当時のお年寄りは良い点も悪い点もあなた方とはゼンゼン違ったんだよね〜と敢えて言っておきたい。ワタシは若い頃に男女を問わず当時のお年寄り、つまり明治大正生まれの人たちと比較的縁があったために、彼らと昭和生まれの中年オジサン、オバサンとが同じ日本人とは思えないくらい(!_+)違って見えたのだけれど、それは教養や行儀作法に顕著であり、戦前に教育をきっちり受けられた世代と戦中戦後のどさくさで教育どころではなかった世代の差だったんだろうな〜と後年思うに至った。もちろんその世代の人たちだってしっかり勉強して教養豊かだったり、優れた仕事をしてらっしゃる方は沢山いらっしゃるのだけれど、戦前の世代に浸透していた東洋的な教養が乏しいせいもあるのかどうか(?_?)人間の肌合いというかタッチが戦前に成人していた世代の人たちとは本当に違っていて、怖さを全く感じないため、それはそれで平等な社会を成り立たせるためには大変非良いことだと思うし、日本はそうなるべくしてなったんだよな〜と思わざるを得ないのである。要はお年寄りが怖くなくなった時代に長老型社会は成り立たない!ということを日本人はもっとハッキリ意識すべきだし、その上で今後どういう政体や組織作りを目指せばいいのかをもっとホンキで根本的に考えるべきだと思うのであります(-.-;)y-゜゜


コメント (1)


今朝子さま、いま読んでる本に出てくる渋沢栄一のお孫さんの渋沢敬三氏が、まさにそんな感じです
文中の方々よりも、もっと上の世代のお人ですけど、二代目である父君が趣味に生きてしまったから、渋沢栄一と渋沢家一族の期待というか思いを受けて、ほんとは学問だけに生きたかったのに、経済人としてきちんと成し遂げて、すごいなぁ
根っこのところが学者だから、昭和天皇さんとの対話がとても楽しかったとも
『渋沢家三代』(佐野眞一)が読みやすくてよかったですけど、『明治を耕した話』(渋沢秀雄)は、写真もイラストもあって、興味深いです
秀雄氏が書いた飛鳥山旧渋沢別邸平面図を見ると、
後年、高齢の渋沢栄一のために寝室の近くに浴室を増築したのが、よく理解できました
500坪もある邸宅の日本館の端近くにある浴室から、廊下や畳廊下と長いです、西洋館の寝室まで。
100メートルどころか200メートルくらいありそう。
西洋館が主賓というか、より大事なというか大勢のお客様用の玄関という感じがします
玄関から入った広間の脇の客室が広いです
広間のもう一方にある脱帽室というのが、知らない単語というか初めて見る言葉でした
現在でいうクロークなんでしょうね
広間から左奥に侍者室、供待ち部屋ですね
右奥に広い食堂があります

もう一方の日本館の玄関の左脇には、執事部屋があって、押入れの他に、電話があります
玄関の右脇は、またも脱帽室
玄関を進むと、応接之間があり、その奥には広い舞台があります
舞台から入側の向こうに広い中庭があります(入側という廊下も初めて知りました)
中庭から仏間に続く畳廊下の端には、ここにも電話室があります
仏間には奥上之間と次之間があり、次之間には押入れもあります
その仏間の更に奥に脱衣室があり、本来の浴室があるのです。ほんとに北の果てという感じ
あ、舞台の中庭の反対側は二之間と大書院で、大書院には床の間と上段床、上々段
台所も広くて、秀雄氏の図では金庫や土蔵より、台所が広いです
そして、金庫や土蔵より下男部屋や書生部屋が狭い
女中部屋も同じくらいだけど、2つあります
って、こんなこと、誰も興味ないですよね
そうだ、歌舞伎の方のお名前も出てきました
廃嫡となった二代目篤二氏は、白金の600坪の土地に広いお邸で、玉蝶という女性と暮らすんだけど、篤二氏が亡くなって、そこは玉蝶に贈与されたけど、
「もう、こんな広い家は必要ないから」と言って、そこは売って、飯倉の小さな家に転居
その家は、もとは市川中車の家だったという(何代目の方だったんでしょう。篤二氏は五世尾上菊五郎の大ファンとか書いてあったけど)
小さいといっても、3人も女中さんがいたというから、そこそこ広い家だったんだろうなぁ

投稿者 せろり : 2021年02月18日 22:59

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