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2019年10月15日

蜷の綿

今日は彩の国さいたま芸術劇場で藤田貴大作・井上尊晶演出「蜷の綿」リーディング公演の最終回を観に行って、最終公演だったのにブログで敢えて紹介するのは是非とも早くの再演が待たれるからである。ふしぎなタイトルでも想像がつくように先年亡くなった演出家蜷川幸雄の自伝に基づいた作品で、本来は生前の公演が予定されながら没後になったことによって随分と印象は違うのかもしれないが、ワタシとしては久々に泣かされた舞台で、勿論ご本人を存じ上げていたせいもあるだろうけれど、ただそれだけではない作品の持つ普遍的なテーマが胸に迫って感涙に導いたのである。
正直いうと、いくら世界的な演出家でも自身が存命中に自伝の舞台化をするというのは随分と不遜な試みのように当初は思っていたのだが、今回の作品を観て、ああ、これはご本人がどうしても最期まで表現し残してはいけないと痛切に感じていた人生の一大テーマだったことが明瞭になったのと同時に、それは演劇にしろ美術にしろ音楽にしろ文学にしろあらゆる芸術家というか表現者と表現の愛好者にとっての普遍的なテーマでもあるからして、蜷川のコアなファンのみならずより大勢の観劇に堪えうる作品だと思われたのだった。
戦時中に東京の夜空を襲った焼夷弾の雨を川の向こうから見て、それらがもたらす惨禍と切り放して美しいと感じてしまった蜷川のような少年は、現実と直に向き合えない触れられない弱さを自覚しつつ、人間や社会や時代の観察者としての表現に向かうが、彼が子供の頃に身近で知って忘れないようにしているはずの現実の労働者には、果たしてその表現が届いてくれるのかどうか。表現をなし得る者は所詮そこそこ豊かな環境と才能に恵まれた者と思われて、生まれてこなければ良かったとさえ思うほどに恵まれない者をいくら頭で理解しようとしてもそれは偽善に過ぎないといわれ、「お前は俺らと全然違う!」と突き放されて、次々と人に去られ、人を切り捨ててしまう負い目と後ろめたさを抱えつつ、それでも表現で世界を変えるという自らの信念に殉じるしかない、車椅子に乗って手足のしびれと闘う日々を迎える人生最後の時に至るまで。そうした表現者としての普遍的な人生が、蜷川自身の出会った実在の人物をさまざまに交えて綴られるため昭和演劇史LIVEの一コマを垣間見るような面白さもあるし、藤田作品ならではのリフレインが非常に有効に使われて蜷川の人生の核心をなす部分が鮮明に浮かびあがってもいた。井上演出はこの作品をアクティブな朗読劇仕立てにしつつ一場の夢幻能にも見立てた恰好で、最後に車椅子姿の蜷川を舞台に登場させ、その蜷川が舞台で若く変貌を遂げて文字通り疾走する幕切れのシーンには胸を打たれた。出演のさいたまゴールド・シアターとネクスト・シアターの面々がぞれぞれの人生で出会った蜷川という人物の息吹を生々しく感じさせてくれた点でも胸を打たれたことはいうまでもない。


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