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2018年09月24日

乙女文楽五十周年記念公演

池袋の東京芸術劇場シアターウエストで上記の公演を元米朝事務所の大島さんと音楽ライターの守部さんと観た帰りに近所のバルで食事。
ヅカジェンヌ→歌舞伎役者のマネージャー→落語の制作者と日本の主要な芸能ジャンルをこなしてつい最近は叔父様である鶴澤寛治師のご葬儀で大変だった大島さんと、情報誌ぴあ時代から世界各国のあらゆる芸能を見まくってこられた守部さんをお誘いして、幕が閉じた瞬間「いや〜たいしたもん!やっぱり今は何でも女のほうがいい時代なんだわね〜」「演奏の迫力もホント凄かったしねえ」と二人が口を揃えて誉めちぎられたのでお誘いしたワタシの面目も立ったし\(^O^)/ 自身も予想以上の舞台成果に少なからず感動を覚えた口だった。乙女文楽を観るのは二度目で、前回は特殊な文楽人形の遣い方が何より興味深かったのだが、今回は大島さん曰く「イマドキは男の文楽を観てるよりもこっち観てたほうがいいんじゃないの」的な舞台としてきちんと成立していただけに、またまた大島さんの言葉を借りれば「これっきりで終わらせるのは勿体ないわよね〜」ということにもなるのだろう。
とにかく乙女文楽を初めてご覧になられた方は今回の舞台が常態のように思われただろうが、そもそも女義さんの生演奏とのジョイント自体が滅多に観られないものだし、ましてや今回のように『奥州安達原』という時代物の大曲を一段ほぼ丸ごと上演するなんてことは奇跡に近いようなレアケース。それをみごとに成立させた関係者各位と出演者全員の努力には心からの拍手喝采を送りたいし、それが成立したからこそこの作品の今まで見えなかった部分にもスポットを当てられた気がしたのである。
一例をあげれば、文楽でも歌舞伎でも袖萩の母親である浜夕にこれほど光が当たった舞台はまずない!といってよかろうと思う。今回はそこに光が当たったことで、この作品全体にわたってドメスティックな女たちと権力闘争に明け暮れる男たちの対比がより鮮明となって、作者近松半二の意図した普遍的なテーマ性がこれまでにないほどくっきりと浮かびあがった。その意味では一見意外な作品の選択が乙女文楽にとって実にふさわしいものだったともいえそうだ。
それにしても本行の文楽の太夫と女義との懸隔が昔からは考えにくいほど相対的に乏しくなった現代において、女義公演は概ね人形なしの素浄瑠璃に留まることでどうしても一般の理解を得難く観客数が限られてしまいがちだが、乙女文楽の人形とジョイントしたことで、こうもストレートにわかりやく語られているのか!という新鮮な驚きもあった。感情がわかりやすく伝わるいわばベタな語り口でもあるのだけれど、女義さんだとそのベタさ加減が決して嫌らしく聞こえないという利点があるのも新発見だった。さらに女の人形は三人遣いよりも一人遣いのほうがリアルに見えて哀れさを増すように思えた点も特記しておきたい。


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