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2016年12月10日
鶏手羽と車麩の旨煮
前にQPで見た料理。生姜の薄切りを炒めた油で鶏手羽と戻した干し椎茸と戻した車麩を炒め合わせ、水を加えて酒砂糖醤油で調味して煮汁がなくなるまで煮込むだけ。鶏手羽はさっと湯通ししておくこと。私は椎茸の戻し汁を加えた。
今週は韓国の現職大統領が弾劾訴追されるというビッグニュースがあったものの、これに関しては一連のゴタゴタがず〜っと報道され続けていたので別段驚くようなニュースでもなかった。これまた別段驚きもしなかったのはDeNAの運営する情報サイトが超いい加減な情報に充ちみちていたというニュースである。ネット情報はベンリな反面、文責のはっきりしないケースが多いため、鵜呑みにするのが禁物であるのは誰もが承知の上かと思いきや、近年は出版社の校閲でさえ平気でウィキペディアを参考文献に添えたりするので、若年層(といっても私より若いだけなのかも)における情報に対するセンサーの鈍化を憂えずにはいられないのである。私もむろん必ずウィキは見るようにしていて、見た上でそれを誤謬とし敢えて違うことを書いたりしている場合、それをまたウィキ調べで文句をつけられたらカチーンと来ること夥しく、校閲がそんな安直な調べでいいのか!と、その出版社に対しての不信感がむらむら湧き上がるのだった。ともあれネットは責任の所在をなくすることで「表現の自由」ならぬ「表現の平等」という人類究極の平等を達成したともいえて、SNSによる政治的混乱たとえばアラブの春も、トランプ現象も根底にある「表現の平等」に支えられているわけだが、「表現の平等」と裏腹の無責任がもたらす文化的社会的荒廃は今後ますます表面化してくる恐れもありそうだ。新たなメディアが登場した時の一過性の現象としては、たとえば日本で活字というものが普及し始めた明治時代に出版物がムチャクチャ増えてとんでもなく酷い文芸作品が氾濫したこともあったようで、それらを選別する基準として坪内逍遙は『小説神髄』を世に問うたわけなのだけれど(本人が序文でそう述べている)、現代はメディア自体の環境がなかなか安定しないため、ユーザーの文化的な成熟もちょっとあり得ないような気がするのは何ともいえません(-.-;)y-゜゜