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2016年11月02日
レンコンの味噌つくね
前にQPで見た料理。レンコンはすり下ろしとみじん切りを半量ずつ用意し、これに鶏ひき肉、味噌、酒、砂糖を混ぜ込んでフライパンで両面をこんがり焼いて火を通す。付け野菜は蕪を四等分してソテーし軽く塩を振ったもので、根菜と根菜の組み合わせ(?_?)は意外な感じもしたが併せて食べたら結構オイシイし、レンコン好きにはオススメの逸品である。
国民性というか、民族性というか、その手の地域限定的なメンタリティーというものが今後の本格的情報グローバル化社会においても残存するかどうかは知らず、いまだ近代社会の尾を引く現代では確かにそれを感じさせられるシーンが多々あるようで、渦中の人チェ氏の糾弾が韓国らしいワンシーンとすれば、豊洲市場の盛り土問題で責任アリとされた歴代市場長の会見はまた、いずれも当事者感覚が極めて乏しい印象を与える点において、実に日本らしいシーンといえるのかもしれない。結果的に無責任となる原因は当初の当事者感覚の乏しさに起因するとおぼしいのだが、当事者感覚が薄いのはむろん何も今度の件に限った話でもなく、また役人に限ってそうだというわけでもなく、われわれの身のまわりでごく日常的に潜む陥穽のような感じで、自分自身も含めて、この島国の人たちの多くに当事者感覚の希薄さを認めざるを得ない気がするのだった。それが一方では他人と揉めない秘訣でもあるのだろうから必ずしも悪いことだらけではないのだろうけれど、余り賞められたことでもなさそうなのは、物事が自分たちの不本意な方向に進んでも、その方向を変えようとする意志が巧く発揮されなかったり、発揮させる方法に無関心だったツケが回って、結果ただただ無力感に襲われながら不本意なことをしてしまう愚を繰り返すのが恐ろしいというべきか。恐ろしいのは為政者も庶民も同等に当事者感覚がなかったりする点で、民主主義の世の中でさえ体制を変えようとする意志がほとんど発揮されない国の問題は為政者にではなく庶民のほうにあるのかもしれません(-.-;)y-゜゜
コメント (1)
確かに。体制を変えるはそのような感じがします(庶民感覚)。一番怖いのは当事者感覚の薄さとどちらかと言えば男性に多いのですが、自身の間違いを認める事が出来ない度量の狭さが問題ではないかと思います。評論家では無いので偉そうに切って捨てる気持ちはありませんが、自分の間違いを認め誤り自身の言動を改めようと考える方は半数を切っているような気がします。
私事に関してそのような気持ちを痛感していましたのでそのせいかもしれないのですが。
なんとなく志があってもそれを貫くことが難しく、若者をいじけさせ、育てることが難しい社会になっているかもしれません。とはいっても今は子どもに甘いと言う意見があれば深く頷きます。
私が子供の頃に世の中がこのような風潮なら、したいことが自由にできたかもしれない?。しかし分かっていても子どもの頃の考え方を思い返すと、親に逆らうのに多大なエネルギーを要するので私はしなかった可能性が高いと思います。
悲観的になりやすいですが私はやや楽観的で性善説を信じたいので出来れば何とか変えていきたいと思います。
投稿者 nao : 2016年11月03日 00:48