トップページ > 尺には尺を

2016年05月25日

尺には尺を

今日はさいたま芸術劇場で故・蜷川幸雄の遺作演出となったシェイクスピア作品「尺には尺を」のオープニングで、満員の客席には大竹しのぶや藤原竜也ら俳優を含めた関係者の姿も多く、カーテンコールで舞台に巨大な遺影が降りてくると目頭を押さえる姿があちこちで見られ、私もまた思わず涙ぐんでしまったほど、とにかく俳優陣みな緊張感に溢れて熱のこもった舞台を披露し、遺作の名に恥じない初日を迎えたのは何よりだったかと思う。
この作品は一応喜劇の体裁を取りながらもいささか苦みのある幕切れで「問題劇」とされるらしいが、シェイクスピア作品はなまじコンテンポラリーに読めてしまうセリフが多いために、ここに見られるような時代劇ならではの設定、たとえば婚前交渉が淫行罪に問われるだとか、生娘が身内の命を救うことよりも自らの純潔を尊ぶとか、支配者が一種のいたずら心で水戸黄門的な隠密行動を取って悪事を暴くとかいった展開に何だかついていけない感じを抱く向きがあったりするのかもしれない。いずれも歌舞伎だったら別段そんなにひっかからないような、むしろありがちな設定であるため、登場人物の一人が幕切れ近くで「異常な展開に開いた口が塞がりませんなあ」と楽屋落ちめいたセリフをつぶやくほどには私は驚かなかったし、むしろこうした極端な設定だからこそ人間の本質がくっきりと見えてくる面白さを十二分に楽しめる戯曲として受け取れた。中でも良く出来た人として自他共に認めていた人物アンジェロが一時的に権力を委譲されたことで「ひとたび正道を踏み外すと何もかも巧く行かなくなる」状態に陥り、自らの人間性を破綻させていく過程は非常に面白いだけに、この役を演じる藤木直人には故人の目がもっと細かく厳しく注がれていたらという、無いものねだりをついしてしまうのだった。この種の役は場面毎にがらっと変わるようなあざとい演技術が案外と有効であり、そういう点では古典劇的な素養が必要となることを故人なら指摘できたのではなかろうか。一方、権力を笠に着たアンジェロの心を大いに惑わしながら純潔を貫くために断固相手を拒絶するイザベラ役の多部未華子は直球勝負の演技で聖女の残酷さを遺憾なく表現し、出色のデキといえそうだ。アンジェロとイザベラが丁々発止とやりあう場面は紗幕を隔てたやりとりとなって、最後に紗幕を切って落とすことでアンジェロが自らの人間性に気づく瞬間とする演出は買うが、その前に両者が何度も紗幕を出たり入ったりするため、折角の振り落としが有効に働かないのはちょっとザンネン。幕切れでイザベラが舞台奥に引っ込むシーンなどもきっかけをもっとキッパリとすればさらに際立つはずで、そうした細かい点を練りあげるのが故人不在の中での課題であろう。一時的に権力を委譲して隠密行動を取るヴィンセンショー公爵を演じるのはベテラン辻萬長で、この人の存在が舞台全体の重石となり且つ軽妙な演技でリードしている。他にも大石継太ら蜷川チームのベテラン勢が気の入った演技で初日の舞台を盛りあげていた。


コメントしてください




ログイン情報を記憶しますか?


確認ボタンをクリックして、コメントの内容をご確認の上、投稿をお願いします。


【迷惑コメントについて】
・他サイトへ誘導するためのリンク、存在しないメールアドレス、 フリーメールアドレス、不適切なURL、不適切な言葉が記述されていると コメントが表示されず自動削除される可能性があります。