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2016年03月12日

独活と高野豆腐とスナップエンドウの炊き合わせ、昨日の鍋の残り

昨日のQPは筍と高野豆腐と独活の組み合わせだったが、関東はまだ筍の時期ではないので彩りを考えてスナップエンドウに換えた。独活は煮ると地味な色になるけど風味はGOO!
昨晩は父の入院の件で妹と電話で話し、その前にめでたく理学療法士になったらしい甥っ子から何かと話を聞いて、身内にこういう職業の人がいると頼りになるな〜とつくづく感じたものである。とにかく抗生物質で炎症さえ治まれば退院できて別にすぐにどうこういうような問題が起きる状態ではないらしいのだけれど、いろいろと検査を受けて医師から栄養に偏りがあるのを指摘された妹は「そんなん言われたかて、前から自分の口に合うもんとか好きなもんしかゼッタイ食べはらへん人やし、言うたかて聞かはらへん人やで〜」と憤慨しており、本当にかなり以前から意外と偏食傾向にあった人であるのは確かなので「まあ、お医者はんは健康に注意するのが商売やさかい」となだめながら「しかしなあ、私もパパぐらいの歳になったら、健康のために食事に注意せえとか言われたら、ホンマ余計なお世話やとしか思えへん気がするわ。今生きてるうちに好きなもんせいだい食べて死にたいと思うような気がするさかい、年取った人に食べ方の注意だけはようせんわ」と正直に答えたのだった。そこから老人医療費が非常に優遇されていることに話が及んで「そら私らみたいに高齢者の家族を抱えてたらホンマに有り難いとしかいいようがないよ〜そやけどそれにどんだけ補助が出てるかと思たら怖なってきたわ」と妹は今回の入院費等でつくづく思ったらしく、この問題は本当に年齢やら性格やら家族構成やら家庭環境やら地域環境やら経済環境やらその他もろもろの条件によって感じ方は千差万別であるのかもしれない。事は人が何を幸福と感じるかが千差万別であるのと関連するような気もする。医療のみならず科学技術の発達は、人がごく自然に生きて、自然に死んでゆくという道を狭めてしまった。それゆえに人は歴史上かつてないほど幸福になれた面も多々あるし、一方で自然が喪われたがゆえの不自由さをも引き受けねばならなくなったのであろう。保健医療は素晴らしい制度であることに異を唱えるつもりはさらさらないけれど、それを維持するためには皆になるべく健康でいてほしいがために若いうちからメタボ検診をされて健康であれかしと強要される。米国のリバタリアンが保健医療制度に反対するのも人の生き死にの自由が阻害されてしまうように感じるせいかもしれない、と思えたりもするのだった。


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