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2016年01月08日

元禄港歌

昨夜はシアターコクーンで秋元松代作・蜷川幸雄演出『元禄港歌』を観劇する前に東急レストラン街の「小松屋」で天ぷら蕎麦セットを食す。
蜷川・秋元タッグの第2弾となるこの作品は初演で観て、いかに『近松心中物語』の二番煎じでも秋元先生がなぜこんなエグイほどベタな商業演劇的メロドラマを書いたんだろうか?それにしても後味の悪い芝居だよな〜と失望したのをはっきり憶えているから、今回久々の再演も正直まったく期待していなかった。ところが実際に観てみれば、なるほどコレは一見ベタなメロドラマ風でも、実は非常に計算され尽くしたコンセプチャルな芝居なのだと改めて感心し、『近松〜』に引きずられて観ていた当時のわが目の至らなさに気づかされたものだ。『近松〜』とは全く違って、ここにはいわば秋元オリジナルの世界観が反映されている。
これから初めてご覧になる方もあるだろうからストーリーは詳しく書けないが、初演では因果物じみた展開に後味の悪さを覚えたし、そのストーリーは少しも変わっていないにもかかわらず、今回まったく違った感じを受けたのは出演者の違いも大きく左右している。平幹二朗が初演した悲劇の中心人物を今回は段田安則が演じ、ラストシーンではこの男優の湿り気のない明朗ともいうべき声が劇全体の印象をガラッと一変させた。この芝居は柳田や折口的な民俗学のいう「常民」と「芸能の民」の二分化をコンセプトに構成されていて、まともな経済活動に勤しむ「常民」からこぼれ落ちた主人公が、それを真の自由を手に入れたこととして従容と受け容れるところに、たとえば近松の『出世景清』にも通じるような、ギリシャ劇やシェイクスピア劇にも匹敵する日本型悲劇の王道として秋元は最初から想定していたことが、今回の再演では明瞭に感得できたのである。そこでは芸能というものの発祥が語られてもいるために、芝居全体がごぜ唄と三味線や能と謡など芸能尽くしの様相を呈しており、そこへさらに蜷川演出が美空ひばりという現代の最も芸能的な存在をBGMに加えたことで、そもそも芸能とは何かというコンセプトがくっきりと立ち上がってくるのだった。故に出演者たちが自ら三味線にしろ能と謡にしろ実際にナマで演じることには重要な意味があって、ごぜの長に扮した市川猿之助はもとより女優連がいずれもそれを十分に聴かせるところまで熟達しているのも可としたい。蜷川組常連チームの男優陣が南無阿弥陀を唱える念仏信徒の集団で初演よりもはるかに存在感を発揮して、人間の生と死と再生があらゆる芸能の根本にあることを視覚的に強く訴えかけたのがまた、今回の上演を成功につなげた大きな要因だろう。猿之助には近代化される以前の歌舞伎が持つ力強い芸能の「匂い」があるし、彼と一緒に登場した宮沢りえに負けない存在感があったのも印象的で、「芸能の民」から逆にこぼれ落ちる存在として設定された娘役を鈴木杏が宮沢りえとは対照的な明朗さで演じることで非常にいいコントラストをなしている。猿弥と新橋耐子の夫婦役に往年の新派を彷彿とさせるムードがあったのも特筆物だ。


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