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2015年08月11日

青い種子は太陽のなかにある

寺山修司が二十代に発表した幻の音楽劇『青い種子は太陽のなかにある』はタイトルからして難解でシュールな世界をイメージさせるのだが、実際は非常にシンプルで且つ驚くほどベタなラブストーリーだった。戦後のスラム街を舞台に、そこへ私費で近代的なアパートを建設してスラムの住人に提供しようとする政治家、アパートでの文化生活を推進しようとする役人、アパートに入居を希望しつつもこれまで通りの自由な生活を喪いたくない住人たちの思惑が入り乱れる中で、建設現場で事故死した朝鮮人労働者がそのままそこでコンクリート詰めにして隠蔽されるという事件が起きる。たまたまそれを目撃した青年がいくら真相を訴えても、周囲はまるで相手にしないか、暴露を引き止めにかかる。アパートは徐々に完成に向かい、埋まっている死体を取り出そうとすればアパートは根こそぎ解体されて、スラムの住人たちの文化生活を営む夢もぶちこわしにすることになる。青年の恋人は自分の生活を破壊するようなことは真実ではないと主張し、二人の気持ちは完全にすれ違って、青年もまた一度は口封じに応じるかに見えたが、真実から目をそらすことでは本当の愛も生活も成り立たないことに気づいた恋人は自らスラムの住人に真実を口にして土建屋やくざの兇弾に倒れ、愛のために死んだ者として青年の腕の中で太陽の中に葬られるかのような最期を遂げる。
 これをもしリアリズムで上演したら大昔のプロレタリア演劇のごとくに鼻白ませかねないベタなストーリーを、寺山色満載の舞台美術と透明感のある松任谷正隆のテーマ音楽とで現代の若者のハートをも揺さぶる作品に仕立て上げた蜷川演出の功をまず讃えるべきかもしれない。ところで鉄筋コンクリートの中に埋められた死体とは果たして何の暗喩なのだろうか?それは高度経済成長下で犠牲となった大勢の労働者のことばかりではなく、欧米発の近代的な画一文化生活を目指す中で葬り去られていってしまった民族固有の文化や各人の個性といったさまざまなものを汲み取ることもできる。固まった体制の中からが今こそそれを掘り起こして、もう一度何もかも自前でやり直そうという、寺山の熱いメッセージ伝わって、亀梨ファンを中核とする現代の若い観客層をも刺激した点で意味のある上演だったように思う。何しろ客席では抱き合って泣いている若い女性もいたのだから。
それにしても今回は出演者個々の魅力や持ち味や技量を巧く活かしたキャスティングの妙が大きかったように思う。主役の青年を演じる亀梨和也はジャニーズ系の中でも悩み多き青年像にはトップクラスで適任の人材だし、思った以上に真実味が溢れるセリフ回しにも納得させられた。恋人役の高畑充希は小柄な女優だが舞台では大きく見え、声のトーンや佇まいに昭和の清純派の面影を偲ばせて、これまたぴったりの役どころ。彼女とは対照的に過剰な欲望を持てあます政治家のお嬢様を演じた新人女優の花菜は、その声量においてミュージカル舞台としての牽引役をマルシアと共に果たしたのは特筆に値する。登場した瞬間に不思議なオーラを放って起用理由に納得が行ったのはスラム街の長老役に扮した戸川昌子で、セリフが少し聞きづらい部分もあるとはいえ語り物を演じる迫力は大したもの。青年の父親役に扮した六平直政の喜怒哀楽いずれも振幅の大きい演技も平板に流れがちな戯曲に格好のアクセントとなって面白く、山谷初男が懐かしい姿を舞台に現して飄々としつつ哀感に満ちた男の役を好演しているのは寺山の遺産というべきだろうか。


コメント (1)


主にピアノ弾き語りのシンガーソングライターを応援しています。
この音楽劇は花菜とSaxの伊勢さんをお目当てで、17日に観劇しました。
期待以上の花菜の演劇と歌に感激しました。
音楽劇は花菜にとって2度目の挑戦で、前作では端役でしたが今回は準主役、それを確りと務め上げてくれました。

投稿者 仲田順彦 : 2015年08月21日 20:03

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