トップページ > 柿葺落五月大歌舞伎第二部

2013年05月08日

柿葺落五月大歌舞伎第二部

今日は午後から元米朝事務所の大島さんと歌舞伎座の楽屋を訪ねてから公演の第二部を観劇し、そのあと近所の「天壇」で食事。
今月の第二部は時代の『伽羅先代萩』で幸四郎・吉右衛門の兄弟対決や、世話の『廓文章』で久々の孝玉コンビ復活があったりと、なかなかに興味深い主配(おもはい)の狂言建てだった。「先代萩」はとにかく並び腰元に至るまでベテランの名題クラスが務める豪華版で、主役政岡の藤十郞以下いずれも気の入った演技で緊張感のある舞台に仕立てている。藤十郞は竹本の語りが自然に観客の耳に入ってくるような浄瑠璃の文句に忠実な演技を丁寧に見せているものの、如何せん、政岡の息子千松少年の喉に悪人八汐が懐剣を突き立ててえぐるシーンでは、観客がさあっと引くのを感じてしまい、大島さんも「この芝居はもうギリギリだよね」と言われたほどで、芝居自体の寿命がいつまで保つかが心配されたものである。私が歌舞伎を見始めた頃は子殺しの芝居が今よりもっと多くあったのだけれど、半世紀以上たてば人間のメンタリティも相応に変化を遂げて、いかにリアルな演技ではないとはいっても、子供をなぶり殺しにするシーンを眼前に展開されたら、戸惑いを覚える観客が増えたのはやむなしといえよう。思えば亡き六世歌右衛門の政岡は、子供を眼前で殺されるシーンは全くのノーリアクション、悪人の栄御前を見送るシーンではにんまり笑うという不可解なまでの怪演を披露しながらも、次のクドキが狂気の爆発として却って生々しいほどのリアリティを感じさせたもので、子を殺されたあとの母親は全体にそうした狂気が漂わないと五十年前でももはや成り立たない芝居だったのかもしれない。藤十郎は「でかしゃった!」のセリフに一瞬狂気が窺えたものの、あとは浄瑠璃の文句に忠実な分、意外と冷静に嘆いているように見えてしまうのだからなんとも厄介な芝居である。八汐役の梅玉が子供をなぶり殺しにするシーンもあっさりし過ぎているように感じられたが、今どきはこれくらい淡泊にしないとますます観客が引いてしまうのかもしれない。とにかく床下では荒獅子男之助とほぼ同等の拍手がネズミに対して与えられるのだから吉右衛門も気の毒で、歌舞伎の客層というものがすっかり変わったことを痛感させられたのだった。とはいえ床下がこれだけの豪華配役で上演される機会は今後まずないだろうし、芝居全体にそうしたゴージャス感があったという点で、続く『廓文章』と併せて今月の柿葺落興行の中では第二部が最もお見得な印象を持たせた。
『廓文章』の夕霧を演じる玉三郎は登場の瞬間、三、四十年前にワープしたような美しさをキープしている点に驚嘆させられたものの、芝居は仁左衛門のいわば独壇場で、全体にコミカルさを漂わせつつも伊左衛門の心情を一瞬はらっと強く滲ませる気の入った演技に魅了された。「先代萩」で栄御前をそこそこ公演した秀太郎もやはり吉田屋の内儀が本役といえて、兄弟で活き活きとしたやりとりを見せるが、何より感心したのは踊りに絡む幇間役の千之助で、実に子役とは思えないような達者な演技を披露している。ともあれ賑やかでコミカルさを身上とする松島屋型の『廓文章』はめでたい柿葺落興行にぴったりといえるのかもしれず、男の可愛らしさを強調した芸風で女性客のハートを射止めるのが今の松島屋カラーなのかも?と思ってしまったのは昨日たまたま明治座で愛之助の『鯉つかみ』を観たからでもあろう。深刻な芝居で暗いシーンに終わる「先代萩」の直後に『廓文章』を上演することで、観客はほっとした気分も手伝って大いに盛り上がり、結局は松島屋においしいところをさらわれちゃったという第二部でもあったような気がしないでもありません。


このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kesako.jp/cgi-bin/mt/mt-tb_kesako2.cgi/2635

コメントしてください




ログイン情報を記憶しますか?


確認ボタンをクリックして、コメントの内容をご確認の上、投稿をお願いします。


【迷惑コメントについて】
・他サイトへ誘導するためのリンク、存在しないメールアドレス、 フリーメールアドレス、不適切なURL、不適切な言葉が記述されていると コメントが表示されず自動削除される可能性があります。