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2013年05月07日
追悼
河竹登志夫先生が亡くなられたのを知ったのは明治座の食堂だった。めったに行かない明治座へ今日行ったのは歌舞伎公演の夜の部で「鯉つかみ」が上演されるからで、私はこの芝居をすいぶん前に一度観たきりだったので、久々に観ようと思って珍しく招待状の返信を出したのも、何か虫の知らせのようなものだったのかもしれない。食堂でこれまたつい先日取材をされた共同通信の瀬川記者に偶然お会いして訃報を受け、ただならぬショックを感じつつ、先生の現在のお住まいが近くの新大橋だったのを想い出し、瀬川記者に詳しい住所をお確かめ願って、にわかの弔問を致すところとなったのは、やはり先生に呼ばれたような気がしてならない。
河竹先生は子供の頃から存じ申しあげていて、そもそも早稲田に行ったのも河竹先生がいらっしゃるからだったのに、在学中は残念ながら、さほどの御縁がなかったという話は、NHK出版のWEBで連載中の 『師父の遺言』に詳しく書いているが、卒業後にむしろ御縁が深まったようなかたちで、ことに武智先生が亡くなられてからは後見人のようなこともお願いしたりしていたのだった。
最後にお目にかかったのは二年前の六月三十日で、名著「黙阿弥」が講談社の文芸文庫となる際に、先生のご要望によって不肖私が解説を書かせて戴くことになり、その解説をとても気に入ってくださって、おいしい中華料理をご馳走になったのだった。その時はとてもお元気で、なんと四時間半もおしゃべりをして、面白いお話をさんざん聞かせて戴き、またお会いしましょうと言ってお別れしたのに、去年はとうとうお会いできず、今年は歌舞伎座の開場式が済むまではと遠慮して、3月に京都へ帰った折に先生のご好物がちりめん山椒だったのを想い出してお送りしたところ、いつもは筆まめな先生が必ずご自分で書かれたお葉書を下さるのに、奥様の代筆で頂戴したため、ひょっとしてお具合があまりよくないのではないかと心配していたものの、無事に開場式を終えられたので、今度もまた6月お目にかかって新刊の『壺中の回廊』をお手渡しするつもりでいたのである。先生は拙作をいつもちゃんと読んでくださっていて、『家、家にあらず』なぞはまだ「小説すばる」に連載している時点でお読みくださっていてびっくりさせられた覚えがある。『壺中〜』には先生の御父君と先生ご自身をモデルにした人物を主人公にしているし、『師父の遺言』にもさんざん書かせてもらったので、今年は何としてもお目にかからなくてはならない気持ちだったのだ。
それやこれやで矢も楯もたまらず、奥様がおひとりでいらっしゃるところへ突然押しかけるかたちになり、先生が本当にきれいなお顔で安らかに眠っていらっしゃるお姿を拝見した途端にボロボロと涙が噴きこぼれてしまった。
歌舞伎座の開場式で黙阿弥の子孫として立作者の役目を務めるために、この間の体調維持にどれほど神経を使ってらっしゃったかというお話や、膨大な量の仕事に対していかに隠れた努力が常にあったかというお話を奥様からさまざまに伺って、そうした努力をちっとも感じさせなかったところが河竹先生の都会人らしい素敵なところだったのだと改めて思ったものである。
先生の文章はわりあい平易であるがゆえに、私も若い頃はなんだか物足りなく思っていたし、わざと詩的な言い回しや難解な言語を用いて名文を気取った虚仮威しの評論みたいなものにヘンに感心していた時もあったのだけれど、この歳になるとさすがにわかりやすいことをわざと難しく表現をする人はバカに見えるもので、逆にわかりやすい文章を書くことの難しさが実感できるだけに、河竹先生の解説書の凄味のようなものがじわじわわかりかけてきたところだった。ただわかりやすいというだけではなく、先生は本当の意味での名文家であったことも、自分がいくらか物を書いた上でやっと実感されたのである。
親の七光りでちっとも努力なんかしないで、わかりやすいことだけを研究して、読みやすい文章をすいすい書いている人みたいに思わせ続けた先生のカッコよさは誰にも真似できなかったことだし、今後も誰も真似できないであろう。そういう意味でも、歌舞伎界はまた大きな人を喪ってしまった。新生歌舞伎座の誕生と共に歌舞伎界は今まさに「時代」が変わろうとしているのをひしひしと感じさせられつつ、謹んで御冥福をお祈り申しあげます。
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コメント (3)
『作者の家』『黙阿弥』を読んだ直後、河竹家の世界に浸った勢いで<松濤の家>を探したら、主が変わった後も、(多分)当時のまま残っており、たまたま開いていた木戸から庭と母屋が垣間見れたのを思い出します。時々ロビーでお見かけしましたが、新生なった歌舞伎座を見る事ができて、黙阿弥ゆかりの石灯籠を屋上庭園に納められたのは、お幸せなことだったと思います。
文中、「御父君」のところ、誤記になっておりました。
投稿者 ウサコの母 : 2013年05月08日 11:45
河竹先生とは、時々お寿司屋さんでご一緒になり、見ず知らずの私たち夫婦に優しい目線を送ってくださり、時にはお声をかけていただいた思い出があります。
大きめに握られた昔ふうのお寿司を、うれしそうに頬張っていらしたお姿が忘れられません。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
投稿者 ヒロコ : 2013年05月08日 12:51
河竹先生のダンディでいながら、眼鏡の奥の人懐っこい優しい眼差しを憧れのように慕っておりました。
昔に「河繁」でたまたまお会いして「飛鳥」「幟」のバーと「輪違屋」の傘の間へとはしごしたことを
いつも思いだしながらテレビでお話になるのを拝見しておりました。
先日の「にっぽんの芸能」のお姿が最後になりました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
投稿者 杓庵 : 2013年05月09日 00:41