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2013年05月06日
あかいくらやみ
阿佐ヶ谷スパイダースの長塚圭史作・演出で、小栗旬、小日向文世、白石加代子ら演劇界のスター級をそろえた、このシアターコクーン話題の舞台は「天狗党幻譚」と副題された通り、水戸の天狗党をモチーフにした作品で、概ね山田風太郎の「魔群の通過」に拠っている。ちなみに同一タイトルの小説が三島由紀夫にあるけれど、こちらは別に天狗党とは関係ない。
日本史好きや時代小説好きなら水戸の天狗党の話は大方ご存じだろうが、一般的にはあまり馴染みがないであろうこの話に長塚が興味を持って作劇した背景には、昨今のTPP問題に代表される90年代以降のグローバリゼーションとその影響によって、日本社会における古代から現代に至るまでの大課題「開国か攘夷」かの問題が今ふたたび切実に感じられているという認識があったのかもしれない。ともあれ幕末の水戸藩はカゲキな攘夷派の天狗党と佐幕派の諸生党とが激しい藩内抗争を繰り広げ、諸生党に追われて全国各地をさまようはめになった天狗党はついに追いつめられて降伏したあと三百五十二人が斬首に遭うという日本史上類例のない無惨な結末を迎えた。山田風太郎の原作はこの歴史的事実を比較的忠実に描きつつも、そこはそれ彼ならでは虚々実々の設定を織り交ぜながら、天狗党の人質となった女たちの視点を通して、互いに大義をいい募る男たちの抗争と報復の連鎖がいかに無惨で馬鹿げたものであるかを示した、一種アナーキーな戦後派作家ならではの時代小説といえそうだ。長塚はむろんそのことも承知の上で、舞台を戦後に設定したのだろうと思われる。
風太郎の原作でフィーチャーされているのは天狗党の首領武田耕雲斎の孫金次郎であり、この青年がふたりの人質の女性と性愛、純愛の両面で結ばれながら、幕末から明治初年にかけての日本にとって最も重要な時期を、ただ壮大なエネルギーの無駄遣いとしかいいようのない行動に突っ走って、虚しく亡んでいくありさまが、まさしく戦後派の青春小説とも読めるところがこの作品のキモであろう。長塚の脚色では、この金次郎の子孫が彼の一族を滅ぼした諸生党の市川三左衛門の子孫と結ばれたために、天狗党の亡霊が蘇ってくるという大枠の設定の中で、過去と現在の人びとがさまざまに交錯し、何も「想い描く」ことなく即ち明確なビジョンを持たずに目先のことに追われてただくらやみを動きまわっていたような戦後のニッポンと、今日のニッポンとが透けて見えるような仕掛けにしたかったのだろう、という意図はなんとなくわかったのだけれど、如何せん、原作を知らない観客には果たしてどこまで伝わったのだろうか。もちろん戦後を舞台に現在と過去が交錯する夢幻劇的なこしらえにしてあるわけだから、この際わかりやすさは問題にならないとしても、唐十郎をちょっと想い出させるような舞台だけに、これまた如何せん詩的なセリフを紡ぎ出す筆力にイマイチ乏しいことや、戦後の匂いを肌で感じた経験のまるでなさそうな若さといったアラが目につきやすく、全体にどうしても観念的な産物に見えてしまうのであった。とはいえ役者たちはそれなりに健闘し、白石加代子はまさにこの女優ならではの演技で魅了し、小日向も老人と若者を往き来するせりふ術の巧みさで面白く見せてはくれた。
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