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2012年12月05日

哀悼

けさ早くに勘三郎の訃報に接し、午前中はさすがに仕事が手につかず、午後も色んな方から電話やメールを頂戴した。
もっとも故人(と書くのがまだ信じられないが)とは同世代ながら、さほどの縁があったわけでもない。
初めてお会いしたのは20年以上前の平成2年頃だったと思う。確か歌舞伎座で8月に若手の3部制興行を始めたばかりの頃だったか、古典の大役も次々に手がけて好成績を収め、次代の歌舞伎を背負って立つ風格が全身から滲みだし、それまであまりパッとしなかったこの世代の役者たちにようやく興行的価値が出た時期と、「ぴあ」の全盛時代がちょうど重なって、「ぴあ歌舞伎ワンダーランド」のインタビューが巧く成立したのだった。本誌の監修者である私はインタビュアーとして故人と会い、今読み返してもかなり突っ込んだ話を聞いているように思うのだけれど、当時そればかりでなく何度か立て続けにお会いする機会があって、同世代で同じ名優たちの芝居を見ているせいで、会うたびに話がよく合って盛り上がった。どこかのバーかクラブで歌右衛門の物まねをし合ったりして、当たり前だが彼の巧さに驚かされた想い出もある。
ところが私は一方で当時中村扇雀(現坂田藤十郎)主宰の「近松座」で座付き作者のようなこともしていて、藤十郞から確か中座の楽屋に呼ばれた時、楽屋の廊下の一角が仕切られて、故人がちょうどその中で早拵えをしていて、バッタリ顔を合わせるはめになり、「えっ、今どこ行くの?これから俺の芝居なのに見てくれないの?」と突っ込まれて仕方なく藤十郞に呼ばれていることを打ち明けたものの、ちょっと気まずいムードが漂い、その後は故人の楽屋を訪ねるのもついためらわれて疎遠になってしまったのである。
以来まるでお付き合いはなく、『仲蔵狂乱』がテレビ化される際に八代目勘三郎の役で出演したいというご本人からの申し出を局側が受け、さすがにそこまでの予算はないので丁重にお断りしたというような話をプロデューサーに聞かされて、リップサービスにしても嬉しく感じた想い出がある程度だ。
にもかかわらず訃報を聞いてこんなにショックを受けたのは、やはり故人が歌舞伎にとって本当にかけがえのない存在だったからである。歌舞伎界のスポークスマン的な活躍は誰もがご存じだろうから敢えて書かないが、この人は近代の芸を代表する菊吉(六代目菊五郎と初代吉右衛門)双方の血を受け継いでいることのみならず、戦後の歌舞伎を担ったありとあらゆる名優から直に芸を教わっていて、且つその中で最も若い唯一の人だったのである。どれだけの多くの名優たちから直に教わっているかは「ぴあ歌舞伎ワンダーランド」のインタビューでも彼がきちんと答えている。
かつて晩年の歌右衛門とお会いしてこの人の話になり、「あんまりふらふらされてちゃ困るんだよ。あの子は歌舞伎の中心に座らなくちゃならない人なんだから」と言われたのが忘れられない。私個人はコクーン歌舞伎も平成中村座も野田秀樹との提携も面白く見ていたが、役者人生の仕上げとしては後進の手本となるような古典歌舞伎をきっちり見せてほしいという思いもあった。
歌舞伎を伝統芸能たらしめるのは血のDNAではなく、芸のDNAの器としての役者個々の肉体であり、一個の肉体が喪われることで多くのDNAが消滅する。たとえば初代辰之助が早世したことで二代松緑のDNAの行き場がなくなった結果、七代目菊五郎の芸に変調を来すというようなことが近過去にもあるわけで、歌舞伎全体にとって今回はそれ以上に大きなピースが喪われたという印象が否めない。今やDVDを見ただけで初役を演じる若手役者が増えているという話も聞かれるなかで、実際に多くの名優から直に教わって演じることと、DVDだけ見て演じることの違いを、きちんとカラダで教えられる最後の人になるはずだったのに、それがこんなに早々と逝ってしまうなんていったい誰が思っただろう。この人をずっと大切に守り育ててきた小山三の嘆きはいかばかりか。三津五郎を始め同い年の役者たちや橋之助ら絆の強かったチーム、少し年上で今後の歌舞伎を共に守っていかなければならない思いだったはずの玉三郎ら、もっと年上の役者たちも彼の死を嘆かない人はないだろうと思う。もちろんふたりの息子を始め若手役者たちの精神的な打撃は計り知れないものがある。現歌舞伎界では数少ない、人をしっかりと束ねられる本物の座頭役者でもあっただけに、今後の歌舞伎界が直面するであろうさまざまな艱難を乗り切る船頭として、若手からはも大いに頼りにされていたはずだ。かりに舞台復帰は難しいとしても、せめて命だけは存えて後進の指導的役割を果たしてほしかったと関係者は皆さん思うに違いない。
とにかく立派な歌舞伎座ができたあかつきは、仏造って魂入れずにならないよう、歌舞伎役者全員これに奮起してなんとか故人の大きな穴を埋めるべく精進して戴きたいものである。
まだ信じられない気持ちでいっぱいながら、今はただ故人のご冥福を心よりお祈り申しあげるしかない。


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コメント (6)


松井先生。できるものならあの世に殴り込み、勘三郎さんを取り戻したいです。
でも先生。役者は死んでも役者です。
きっとあの世で芝居を続けますよ。
中村座の檜舞台で、先に逝った名優たちと芸を競い合う勘三郎さんの姿が目に浮かびます。
あの世に負けないよう、この世も頑張ってくれるはずです。

投稿者 明日 : 2012年12月06日 00:38

勘三郎さんの訃報に、言葉が見つかりません。
もうあの舞台が見られないかと思うとさびしい。

投稿者 うだがわ : 2012年12月06日 09:05

勘三郎さんの舞台を一番拝見したのは、まさに20年ほど前、ご本人も歌舞伎界も日の出の勢いのころでした。学生のなけなしの財布をはたいてどれだけ歌舞伎座に通ったか
。その後歌舞伎を見ることが激減してしまったため、いまでも当時の「勘九郎さん」のイメージのままです。ご本人にとっても、これからが本当に「勘三郎」としての花を開かせる時であったはず・・・。これからの歌舞伎界、同世代や若手の俳優が死に物狂いで頑張って、また盛り上げていただきたいと思います。

投稿者 唐辛子 : 2012年12月06日 12:37

芸のDNA! まさに、血統に関係なく、素質のある者に歌舞伎のDNAを伝えていってほしいです。でないと歌舞伎が衰退してしまう。

投稿者 tucci : 2012年12月06日 14:40

15年ほど前でしょうか、勘三郎(当時勘九郎)さんが南座で公演中の時でした。友人の普茶料理をしてるお寺さんの大黒さんから「勘九郎さんが劇団で来はるやけど、ブーブ・クリコとか言うシャンパンを5本用意して欲しい言うたはるけどわからへん」と電話が有って、お酒屋さんに電話をかけ回った覚えが有ります。お姉さまの「久里子」さんに敬意を表してシャンパンはブーブ・クリコしか飲まなかったそうです。

投稿者 ともちん : 2012年12月06日 15:27

色んな舞台の思い出がありますが、一番強烈なのは、たしか、最初の平成中村座のちょっと前の歌舞伎座だと思いますが、藤娘でポッチリととてもかわいらしく幕になった次の演目が沼津で、いつもより更に小汚い平作で現れた時の事でした。とても同じ優には見えないけど、明らかに同じ(当時の)勘九郎丈。おそらく、自身も楽しんで、観る方は、もっと楽しんでいたことが、つい、最近の事のようです。また、やってほしかった。道成寺の花子の後に夏祭りの義平次なんてのもアリだったでしょうか・・・。これからは当代の益々の活躍に期待します。七之助丈も!

投稿者 でじょん : 2012年12月08日 23:42

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