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2012年01月07日

下谷万年町物語(1月6日初日所見)

シアターコクーン再オープンのこけら落とし公演になったこの作品を、私は約30年前の初演も観ていて、当時はパルコという商業施設内の劇場で唐十郎の芝居を上演すること自体が演劇界のみならず社会的な事件だったように記憶する。それゆえ私も社会的な事件に立ち合う昂奮に眩惑されて、芝居そのものにちゃんと向き合う精神を欠いていたのかもしれない。おかまの集団が暴れ回る猥雑な雰囲気の中でテント芝居さながらの本水を使った池から主人公が登場するアングラ劇が座り心地のいいシートの前で繰り広げられた驚きと、おかまの大将を演じた故塩島昭彦の異様な存在感が記憶に残るのみで、今回の再演が初めて観る舞台のように新鮮に感じられた。そしてこれは唐十郎が「演劇の持つ力」について真摯に語った、極めてメタ・シアター的な戯曲であることにようやく気づいたのだった。
唐十郎の芝居は常に「無惨な現実」とその対極の「本来あるべき世界」とが交互に押し寄せる仕掛けで展開され、最後には必ず「無惨な現実」のほうは夢であって、「本来あるべき世界」のほうが真実だと感じさせてくれる。それこそがまさに「演劇の持つ力」であると、この作品がストレートに訴えかけるのは、キティ・瓢田という女優と田口洋一という舞台演出家の悲恋をモチーフにしているためであり、一方に上野公園を視察した警視総監が殴られたという実際の事件をモチーフに公権力と闇の権力のぶつかり合いを芝居に仕立てようとする一座の話も出てくる。公権力が闇の権力に負けるのもまた演劇の世界ではありがちなことなのだった。
ヒロポン中毒の果てに自殺という無惨な現実とは裏腹に、水中の大劇場で男装の麗人として颯爽と舞台に立つキティ・瓢田は本来初演時の李礼仙に書き下ろされた役だが、今回演じる宮沢りえによって全く異なる造形がなされたといってよい。いま思えば李礼仙は不思議な女優で、セリフは一本調子に近かったけれど、一貫して無惨な現実とは無縁な存在感を放つことができたからこそ唐戯曲を立派に体現し得たのだろう。宮沢りえは無惨な現実をもリアルに感じさせる演技力がある一方で、颯爽たる姿態が夢のような舞台を現出せしめ、本来あるべきキティの姿を強く印象づけるのだった。
洋一の役を初演したのは今をときめく渡辺謙だが、正直いって申しわけないくらいに全く印象に残らなかった。今回は藤原竜也が相変わらず達者な演技を見せつけたものの、役自体が途中から尻切れトンボのようになってしまう憾みがないとはいえず、むしろ少年の文ちゃん役のほうが最後は印象に残りやすいのだろう。この役は西島隆弘が好演し、声にも特徴があって実にいいのである。
オトナになった文ちゃんを演じるのは唐十郎本人で、相変わらず滑舌に難があって自分が書いたセリフなのに何を言ってるのかわからないのだけれど、役者としてもやはり存在感は圧倒的であり、この人の肉体を久々にナマで観られたことに幸せを感じた。
その唐十郎をも舞台に立たせることができるのは、本人を除いて蜷川幸雄だけだろうし、こうした暴力的ともいえる猥雑な舞台を演出できるのは世界広しといえどもやっぱり蜷川さん以外にないだろうとの思いを改めて強くした今回の公演。装置等は初演時とそんなに変わっていない気がするが、変わったところがあるとすれば、戯曲がわかりやすく感じられた点だろうか。さまざまなイメージが縦横無尽に飛び交う唐十郎の膨大なセリフに圧倒されながら、3幕の長編戯曲があっという間に感じられたのは、セリフを聴かせる力が役者たちに求められた演出の結果であるような気がするし、30年前の蜷川さんはそういう点にはあまりこだわらなかったのではないか?というようなことも今回つくづく感じたのである。最後にせっかくきれいになった舞台でこんなカゲキなこけら落としを企画した劇場の制作に拍手を送りたい。


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