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2011年12月10日

スペイン風野菜の煮込み

たっぷりめのオリーブ油でニンニクと玉ネギ、ジャガイモの順に炒め、透き通ったらチョリソーを加えてパブリカを振り、トマトの水煮缶と水を足して塩で調味し、煮立ったらブロッコリーを入れて柔らかくなるまでしっかり煮込んで、仕上げに卵を割り入れて少し火を通す。玉ネギ、ジャガイモ、チョリソーいずれもコロコロした感じに切っておく。意外と簡単にできるし、栄養価も高そうである。
今日は氷川神社で「十日市」という酉の市みたいなものがあって、去年それに初参加したら、さいたま中の人が大宮に集結したんじゃないかと思うような物凄い人出に呆然とし、揉みくちゃになって肝腎の熊手売り場になかなかたどり着けずに往生したため、今回は昨日の昼間こっそり先駆けて、たぶん一番乗りな感じで熊手をゲットしました(写真)。
今夜は食事しながらTVでフィギュアスケート・グランプリファイナルを観て、期待していた浅田真央選手が欠場したのはやっぱり残念だけれど、誰よりも本人が残念だったにちがいない。緊急帰国でたぶんそうだろうとは思ったが、急逝なさったお母様は私より十歳も若い方だし、よほどの急変だったのか、あるいは知らせるのや帰国の決断をギリギリまで延ばしたかどうかは知らず、恐らくは病床のお母様のために頑張ろうという気持ちで旅立った結果、間に合わなかったという現実もお気の毒で、役者は親の死に目に会えないという言葉が想いだされた。それにしても、この言葉はもともと一般人がほとんど移動することがなかった時代に、役者は親の死に目にも会えないくらい、旅が多くて流転の人生を送るというような、どちらかといえばマイナーなイメージを持っていたはずで、それがいつの間にか、役者はひとりかけても舞台が成り立たなくなるから、親の死に目に会えなくても舞台を務めるというような、ストイックなプロフェッショナリズムを表す美談的な内容に変化したように思う。「碁に凝ると親の死に目に会えぬ」というような他のことわざの例を見ても、「親の死に目に会えぬ」ことは本来決して推奨されるものではなかったのである。それが美談的なニュアンスに変化したのは、、お国のために頑張ろう式の集団主義が蔓延した一種の近代の歪みとでもいうべきものではなかったか。とにかく言葉というものは時代と共にニュアンスが変化するし、時代によってまた事の是非善悪は多分に変わるのであった。今回の浅田選手の帰国をまさか咎める人はいないだろうと思っていたら、意外に非難された方もあったので、現代は高齢化もあって価値観が本当に入り乱れていることを改めて感じたのである。


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コメント (2)


私なんかは親の死に目に会えぬはそんなに大したことかいなと思うのであります。
物語のなかでは、虫の息の親の手を子が握ると、とたんに安らかな微笑になり事切れるなんて場面が涙を誘うにありますが、現実はそんな風にいきません。
会えない場合もあるしそれが親不孝な事でもないのに、親の死に目に会うという言葉の雰囲気が人の頭に刷り込まれている感じがします。
他にもそのフレーズだけが妙に先行してるもんがありますなぁ。変なことはたくさんありますな。

投稿者 毎晩晩酌 : 2011年12月12日 17:29

 遅いですが、親の死に目に会えないことは私にとっては辛いことです。主人方の伯母を亡くしただけですが、祖母のように温かくふんわりした優しさを漂わせる方でした。私とはそれほど縁が深いとは言い切れないですが一年以上会えてなく会っておけば良かったと後悔しています。
 それは自分の為にで、気持ちの準備を出来なかったからのせいでもあります。
 失礼かもしれませんが、親が亡くなっても競技に出るべきだと言われる方がいたら、本人が悲しんでいる時に何故そのような心無いことが言えるのか理解に苦しみます。
 次のNHk杯に出ると言えた事が頑張りすぎてないことを祈ります。真央ちゃんは大好きですが、少し真面目な感じがして嫌な時は嫌と言って。影響が薄ければいいけど、競う気持ちになれなければ無理しないで。表現したいことがあれば、是非ここで見せてください。と思っています。

投稿者 nao : 2011年12月18日 01:30

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