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2011年10月13日

バーニャカウダ、揚げニョッキ、豚モツとキャベツの平打ちパスタほか

翻訳家の松岡和子さんと大宮駅近くのイタリアンBuon Viaggioで食事。駅から近いというだけの理由で入った店だが、意外に結構でした。
松岡さんはさいたま芸術劇場で「アントニーとクレオパトラ」のポストトーク出演後にお寄り戴き、私は釧路の和商市場でゲットしたお土産をお渡しして、先日Sさんとご一緒した超リーズナブル且つ快適な旅行を大いに自慢したら、今度は私も是非Sさんとご一緒した~い!!!と仰言った松岡さんである(^_^)でもって、「私たちはもともと芝居で知り合ったのに、今は会ったらほとんど馬の話ばかりしてるね」と言われて、一体馬の何がふたりをこんなに溺れさせたのかはとてもナゾでした(笑) 
ご自宅のある世田谷で放射線量の異様に高いスポットが出たニュースを気になさっているようなので、「あれってどう見ても検出のされ方がおかしいし、ひょっとしたら福島の原発とゼンゼン関係なくて、前からあそこにずっと出てた放射能じゃないんでしょうか」と言って、家にもどってTVのニュースを見たら、案の定やっぱり原発とは関係なさそうな話である。そもそも自分の身のまわりの放射能を量る人なんて、今までほとんどいなかったはずだから、今後もこういうことがあちこちで起きて、そのつど恐怖にかられる人が出るのだろう。全く知らぬが仏とはよくいったもので、現代社会に生きる私たちは日々好むと好まざるとに関わらずありとあらゆる情報が入ってきて、そうした情報化は本来人間を解放させる方向に進むはずが、結果として逆に人間を混乱や萎縮に陥れるのはなんとも皮肉な現象である。詰まるところ技術のない人間が高級な道具を持ってもどうにもならないのと一緒で、成熟しない魂に過度の情報を与えても混乱は増すばかりではないのだろうかと、放射能の件に限らず、今世界のあらゆる場所で起きている混乱を見ても思うのである。でもって怖いのは、過度の情報は魂を成熟させないベクトルを有している可能性もあるような気がすることで、人間がもはやあらゆる点で「知らぬが仏」の昔には戻れないことは現代の最大の悲劇なのかもしれません。


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コメント (3)


「過度の情報は魂を成熟させないベクトルを有している可能性もあるような気がする』という部分に考えさせられました。
書店に勤務しているのですが、友人から「本はいずれなくなるから将来設計を考えろ」と言われています。「本」=「情報」なのだから、アイパッドやキンドルが書籍の代わりになるというのが理由です。
「本」=「情報」だろうかという疑問を感じています。
「本」は「魂を成熟させるベクトルを有している」と思います。
それは「過度の情報」を削いで、熟した情報になっているからなのかと感じました。
ブログの文脈からはずれたコメントになってしまいましたが、もしご意見頂けたら幸いです。

投稿者 みぎこ : 2011年10月15日 09:14

みぎこさんへ
>「本」は「魂を成熟させるベクトルを有している」と思います。

現在「本」の形態をしているすべてがそうとはいえないでしょうが、でも、概ねそうだと思います。というか、本来そうあるべきものとして「本」は生まれたのだと思います。「熟した情報」とはとてもいい表現で、私も長く「本」作りに携わってきた人間として、それがいわゆる情報誌でも、いかにそのその情報を熟したものにするか腐心してきました。昔の「ぴあ」はわずか400字の原稿を書くのに丸1日がかりでした。取材日を入れると2日がかりで、どれだけ必要な情報をレイアウト内に収めるかということに四苦八苦しておりました。情報が電子化されるとレイアウトが緩くなるせいか、インタビューされた
ものを読んでも、それって話したこと全部じゃん!という記事が目立つようになり、そこにライターの視点や能力が示されていない気がしたものです。
また読むほうとしても、私はこのところ電車の往き帰りに必ずIPadで青空文庫を読んでいるのですが、時間潰し的な読み方としてはとてもベンリでいいし、ああ、昔はこういう表現があったんだ!と気づかされるという情報サポートも得られるのですが、何かじっくり考えながら読むには向いていない気がします。とにかくページをどんどんめくっていって、あれっ、これってどういう意味だっけ?と疑問に思った時点でバックすることが「本」と違って難しいので、始めからこういう媒体で育つと、問題のポイントだけをつかんであとはどんどん流してしまうお受験優等生的な人間になるのではないかと想像され、結果、人間性の奥深い部分が置き去りになって、組織やなんかは成長しても、個々の人生はつまらない方向へ進むのではないかと考えています。

投稿者 今朝子 : 2011年10月15日 09:50

「本来そうあるべきものとして「本」は生まれたのだと思います」
という言葉に、長く「本」に関わるお仕事をされてきた方の矜持を感じしました。人は与えられた制約の中で格闘していく内に、成熟していくのだと思いました。
こういった目に見えないものが力となって、これからも「本」を支えていくのだろう、支えていかなくてはいけないのだろうと思います。
書店で働く上で、「書物に対する尊敬の念」を持つことを念頭においております。
「情報」という生ものを尊敬することはできません。「魂の成熟」に関わるものだからからこそ尊敬の念を抱けるのだと、自分自身の疑問に答えを見いだしたように思います。
ありがとうございました。

投稿者 みぎこ : 2011年10月15日 11:17

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