トップページ > 燻製3種、筍と浅蜊のワイン蒸し、スパゲティアメリケーヌ、おこわカレー
2010年04月23日
燻製3種、筍と浅蜊のワイン蒸し、スパゲティアメリケーヌ、おこわカレー
燻製屋「ヌーベ」でスラッシュの守部さんと食事。
今日の夕方は、事務所で読売新聞社の田中記者とお目にかかって、武智鉄二師についての取材をお受けした。今週はNHK解説委員室の舘野氏からも武智師の話を訊かれて、なんだか先生に僕のことを忘れては困るよ、と言われているような気がするほどで、決して忘れてませんからご安心下さいという気持ちでいろいろな思い出話をしたのだった。なんとなく凄い人だった、というイメージを、今やご本人を知らずに勝手に語っている識者もあるようなので、最後に一番身近にいた弟子ともいえる私としては、一度きちんと語る場を設けるべきなのだろうけれど、とにかくあまりにも多くのことをなさった方でもあるので全貌がなかなか把握しずらいのと、そのほとんどが舞台芸術で消えてしまっていることや、同時代的にどう評価され位置づけられたかを知る人も今やほとんどいない状態なので、きちんと語るのは実に難しい作業といえる。
師が亡くなられた直後に、私は故木下順二先生にお会いして、武智師と木下先生との関わりにういてもいろいろと聞かせて戴き、「武智さんのことは、あなたがちゃんと後世に伝えなくては駄目ですよ」とも言われながら、なまじご本人をそばで見ていただけに、小説の中にオマージュとして登場はさせられても、評伝という形で書くのはかえって難しいような気がするし、そもそも自身が評伝というジャンルにはまったく向かない資質であるために、今後もまず書くことはないような気がするのだった。調べることは好きだし得意なほうなので、どこまでが本当で、どこがフィクションなのかわからない、なんてよく言われる伝記的な時代小説を書いたりもするが、それは評伝とは似て非なるというよりも、ある意味で最も遠いジャンルの文芸なのではなかろうか。評伝には、ある程度の想像を交えることは許されても、けっして妄想を働かせてはいけない作業であり、それは私には絶対にできないことなのである。この違いは意外に理解されにくいのだけれど、たとえば司馬遼太郎さんの書かれたものは、どんなに多くの資料が駆使されていても、あくまで小説であって、評伝ではないし、恐らく評伝はお書きになれなかったのではないかと思う。
評伝を書くには、それなりのストイックな資質が必要で、小説が書ける人間ならもっと簡単に書けるだろうと思い込むのは大間違いだし、少なくとも自らがそうした錯覚を起こさないよう、常に自戒すべきだとしているのである。
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kesako.jp/cgi-bin/mt/mt-tb_kesako2.cgi/1521
コメント (2)
こんにちは。
たしかに向き不向きはありますね。
>評伝には、ある程度の想像を交えることは許されても、
>けっして妄想を働かせてはいけない作業
わたしはどうやら小説が書けない人間のようで、どうしてこういうふうに想像力が働くんだろう?と中高のころ、司馬遼太郎の小説を読みながら思ったものです。
ひとつ評伝で書けたらいいなあ、と思っている人がいるのですが、イイところワルイところひっくるめて書くには、家族なんかの了承も必要だろうし、今は個人情報というのがやかましいので、むずかしい問題があるなあ、と思っているところです。
投稿者 ぱぐ : 2010年04月24日 12:36
武智先生の事は最近見直そうという動きが出て来ているようで大変嬉しい事です しかし資料の展示や研究でなくて評伝を書かれる事は至難の技かも知れませんね でも身近で存じ上げていた方がどんな風に描かれるのか楽しみでもあり期待してまちたいと思います 今月は今朝子本で図書の予算が着えました!
でも楽しく読ませて頂きました。
投稿者 ねこ かおる : 2010年04月25日 18:10