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2010年04月16日

春野菜と魚介のパスタ

世田谷パブリックシアターで二兎社公演/永井愛作・演出「かたりの椅子」を観る前に近所で食事。
今や巷で大いに話題になっている独法の天下り問題が、個人的に最も身近に感じられたのは新国立劇場の芸術監督解任事件だったが、その渦中の人となった永井愛氏が、公然とドラマ化した作品だから、登場人物の多くが誰を諷しているのかもある程度わかって、ご本人が見たらどう思うんだろう?なんて気がしたくらいである。もっともさすがにストレートではなく、新国立劇場の理事長は地方都市の文化財団の理事長とし、そこで開催されるアートフェスティバルの実行委員長が解任されるまでの経緯が描かれている。
 委員長のアーチストは使い古された椅子を街角に並べて、そこに座った人が互いに「語り」合える場にするというイベントを企画するが、文科省の天下りである理事長は、アーチストの作ろうとするものが「自分の大切にしている何かをすべて壊してしまうようなものだ」と直観する。アーチストと官僚の決して相容れない
センスの根本にあるものは何かといえば、官僚が自らの心と「語り」合うことなく、自らの心を「騙る」ことで「椅子」に座る人びとだという点だろう。最初はアーチストの味方だった他の実行委員も自らの心を「騙る」ことで次々と寝返ってしまい、それは「椅子」に座れる居心地の良さから抜けだせないためである。椅子とは申すまでもなく社会的なポジションの謂である。
私はつねづね世の中には2通りの人種があると思っていて、1つはモノが作りたい人、もう1つは居場所が欲しい人である。モノを作りたい人が本当にモノを作れる間はどこかに落ち着いてるヒマもないので居場所は不要なのだけれど、だんだんモノが作れなくなると居場所を探し始めたりもする。そのいっぽうで、モノを作る才能がないにもかかわらず、場所を得れば何かモノが作れるような錯覚を起こす人もいて、演劇はことに独りで作るものではなく、発表する場所も必要だから、新国立劇場のような問題も、起こるべくして起こったのかもしれない。考えてみれば演劇に比べると文芸のモノツクリは実にシンプルだから、さすがにこの問題に相当するような事件がちょっと想像しにくいのであります。


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コメント (2)


文芸における「居場所」に相当するものは「賞」ではないでしょうか。賞をもらいたくて東奔西走する小説家の卵を主人公にした小説は、筒井康隆の有名な作品を筆頭にしていくつかあると思います。
もっとも、松井さんのように活躍する実力のある作家にとっては、おそらくあってもなくてもどうということはないもので、強く求めることのないものだろうと思います。その意味でも「演劇」における「公の庇護」という「居場所」とよく似ているかもしれません。

投稿者 nami : 2010年04月17日 00:20

たしかに「賞」によって居場所というか作品を発表する「場所」ができることは確かで、私の場合は「時代小説大賞」でそれがどっと増えましたが、それでもやはり作ることが先にありきで、その後もやることは全く同じですし、こうも出版界が凋落してしまうと、作らなくても出版社に「庇護」される感じにはならないのですけれど、結局それは大先輩の作家の方々でも同じだったのではなかろうかという気がします。個人プレーの自由度と不安定度の双方をずっと享受し続ける覚悟がなくては作家をやってられないのは今も昔もそう変わらないように思いますし、本がいくら売れなくなっても「公の庇護」を求めるようになったらこの商売はお終いだと思うのは、まさに自分の心を騙らずにいることでしか作品は生まれないからだと申せましょう。

投稿者 今朝子 : 2010年04月17日 09:20

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