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2010年03月05日
点心コース
新国立劇場で別役実作「象」を見る前に、スラッシュの進藤さんと近所の店でとてもリーズナブルなコースメニューにトライ。
「象」は1962年に初演された戯曲だが、中心人物がケロイドを見世物にする被爆者という設定は、当時として画期的にアグレッシブなモチーフといえそうである。そこには日本の「戦後」が風化しつつあるなかで、人間関係が生々しさを喪失して、どんどんと希薄になってゆくであろう時代の雰囲気がみごとに描かれ、別役戯曲の先取性を改めて感じさせられた。かつてケロイドを見世物にして、今ふたたびそれを試みようとする男(大杉漣)をオジサンと呼ぶ若者は、すでにそれが人びとに衝撃を与えた時代は過ぎ去り、もはや何事もなかったように人びとは愛し合ったフリをして生きているのだと看破する。その若者をSMAPの稲垣吾郎が好演して、この戯曲の書かれた時代に限らず、普遍的な時代の風化と世代間のギャップをリアルに感じさせたのが印象に残る。決して滑舌がいいとはいえないこの人が、幕開きのモノローグも非常にリリックに聞かせて、舞台人としての成長を窺わせた。片や大杉漣は、元「転形劇場」の名優とはいえ、セリフ劇になると、こうもベタな芝居をするのかと少しがっかりさせられた。初期の別役作品は後期の作品ほどドライな抽象性はないといっても、ある程度の抽象度がないと戯曲の普遍性を損なってしまう。その点は演出の指示にも関わることであり、深津篤史の演出は舞台美術の点では高く買うけれど、戯曲全体をどう見せるかの方向付けにおいて、役者個々の演技を統一できなかった憾みがある。ひとつひとつのセリフを丁寧に聞かせようとする意図はわかるのだけれど、それがウエットに流れ過ぎて戯曲の硬質な持ち味にそぐわないし、テンポも落ちているのが特に第一幕では苦しい。戯曲に最もふさわしいトーンだと感じられたのは大杉漣の妻役を演じた神野三鈴だが、一方で妙に思い入れたっぷりの羽場裕一のセリフがあったりすると、ドラマ全体をどこに着地させたいのかが一向に見えてこない。敢えて個々のトーンの違いを出すことが有効に働いたとも思えないので、この点は演出家の中にも戯曲の解釈の揺れがあったのかもしれない。ともあれ舞台全体に古着をばらまいた美術は原爆投下後の風景を髣髴とさせて実に印象的だった。
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