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2009年09月02日
信州豚の黒酢炒め、銅鍋ごはんセット
旧軽ロータリーの「酢重正之商店」で食事。銅鍋で炊いたというご飯は確かに美味しいが、いくら夏場の軽井沢で絶好のロケーションに位置するからといって、味噌汁と漬け物がついただけのセットで¥880はちょっとボリ過ぎかも(写真にある豚の黒酢炒めは別料金です)。しかし今日はなにもガイドブックで紹介されてるような有名店をリサーチするつもりでは全然なくて、住まいの近所にある店で、「ガンボ」は休みだったし、蕎麦屋の「川上庵」と隣り合ったこの店は独りで入りやすい雰囲気だったのである。
ところで軽井沢での晩ご飯も今宵が最後で、今日は連載小説第10回目の出だしがなんとか滑り出せたことに少しホッとして、明日からは自宅に戻って続きを書くつもりだ。東京の気温もすでにかなり下がっているようだから、帰るのがイヤだというほどではないのだけれど、今年はすっかりこちらに馴染んでいて、なんだか離れがたいような気がしている。土産物を買うにしても、食料や日用品を揃えるにしても、お目当ての場所にはもうほとんど迷わずに行けるし、スーパーマツヤの歌なんかも覚えちゃったし(笑)、乗馬クラブでは先生方に大変お世話になって中間種の馬たちにも愛着が湧いたし、住まいはとても快適で、常に目の前に緑があって、水も空気もサイコー!という素晴らしい環境もさることながら、こちらにいると、ほとんどストレスを感じなくて済むのは、何かと雑用や情報から遮断されているせいもあるが、あまり多くのことができなくてもそれでスンナリ諦めがつくからではないか。たとえば、夜中にコンビニに行きたくても行けないことは健康に、また意外に精神衛生にもいいのである。三軒茶屋はとてもベンリな町で、色んな店があふれかえってるから物価は安くていいのだけれど、日常的にモノがあり過ぎて選択肢の多すぎる生活はそれだけで疲れてしまうようなところがないともいえない。で、これはある意味で現代社会が抱える一番大きな問題かとも思えるのだった。私が子どもの頃はまだモノや店や情報やその他さまざまことが今ほど多くはなかったから、生まれ落ちてすぐにこうした何もかもが過剰ぎみの社会に放り出された人間の精神はどのようなものかちょっと見当がつきにくいが、少なくとも過剰なものをホンキで有り難がる気持ちにはなれないだろうし、そうした精神の変容を見越した上でまた新たな社会のありようが模索されるべき時代だろうと思う。経済だけを考えて国や社会のあり方を決める時代は本当をいえば人類にとってもはや過去のものとなりつつあるのかもしれない。写真中段は近衛山荘側から見たこちらでの住まい。下段はお世話になったお馬さんたち
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