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2009年08月15日

花豆ご飯、精進揚げ

今の住まいのオーナー北住さんから頂戴した、お母様手作りのおこわと野菜の天ぷらを大変おいしく戴きました(^_^)最初お電話で「母が作った豆ご飯を持っていきます」と言われて、???だったのは勝手にエンドウ豆を想像していたからで、ネットで調べたら軽井沢周辺では写真にあるような大きな花豆を使って赤飯を作るのが一般的らしい。たぶんお盆に食べる習慣もあるのだろう。そういえば私は子供のころ、お盆に必ず食べるものって何かあったっけ?おはぎ?とか首をひねりつつ、それぞれの土地の行事や食習慣はなるべく大切に残したいものだと思われました。
今日は終戦記念日でもあるので、これもなるべく風化させないように日本人の記憶に長く残したいものだと思われます。
今年の夏はNHKが戦争証言の報道に力を入れていて、「日本海軍 400時間の証言」と題した海軍エリート参謀たちの証言も現在の官僚体質と非常に通じるものがあって面白く見たが、昨夜の「忘れないで、わたしたちの戦争」と題した一般兵士や将校の証言記録の生々しい迫力には圧倒された。ことに淡々とした口ぶりで「私は人も殺しましたよ」といって、まるではにかんだような表情を浮かべて目を宙に泳がせた高齢者の男性と、「そんなこと私は初めて聞きました」と目頭を押さえるご夫人の姿は今も忘れがたいものがある。スタジオゲストの五木寛之氏が「現在ひょっとしたらまた戦争が起こりそうなムードがあるからこそ、こういう番組をするんでしょ」的な発言をなさったが、かつての太平洋戦争のようなかたちではないにしろ、日本が他国の戦争に加担する可能性は今後大いにあるような雰囲気なので、私も最近「円朝の女」や「銀座開化おもかげ草紙」Part3の中で戦争の話を書いたりしてるのである。日本が近代化に向かう段階で大英帝国が日本を指嗾して戦争に駆り立てたのは紛れもない事実であり、それが彼らにとっては商業活動の一環であったことを忘れてはなるまい。今後日本もまた自らの手を汚さすに、武器輸出というような露骨な方法でもなく、他国の戦争による金儲けをたくらむ企業は少なからずあるだろうし、自分たちが直接被害をこうむらずに経済が豊かになるならそれでいいじゃない、というふうに考える人びともまた余りにも多そうである。
私は太平洋戦争で身近な人が亡くなっているわけでは全然ないが、3歳から6歳まで親の手から私を預かって育ててくれた女性が戦争未亡人で、仏壇に白い骨箱が置いてあって、「中あけたら、入ってたんは石だけやった」と何度か聞かされた覚えあり、その言葉が今も記憶にしっかりと残っている。


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コメント (3)


キャベツのサラダ作りました。九鬼さんの濃い目のごま油が手にはいりましたので。親子3人で半分は食べましたが、まだ物足りないくらいでした。お肉は別に焼いて添えました。一緒に炒めないほうが美味しいですね。

私が子供の頃、近所のおっちゃん達が「朝鮮で戦争してくれた御蔭で日本は儲ける事ができたんや」と言っていたのを思い出しました。まだ日本が敗戦から10年も経って無い頃。空襲で家族を失った方、大きな怪我をされた方、戦争未亡人と言われる片達が身近にいる時代でも、そんな感覚の方も居たのですから、今なら居て当然。
人の心は得なほうに流されやすい、それが人間と人間がを殺しあうような事であっても。殺されるのも、罪の無い人を殺すのも絶対に嫌!そんな単純な事から考えたいと思います。

投稿者 お : 2009年08月15日 22:50

なじみのお寿司屋さんの「お父さん」は昭和19年浅草生まれです。東京大空襲の夜、年の離れたお姉さんが赤ちゃんだった「お父さん」をおぶって地獄の中を逃げ回ったそうです。ご本人にはまったくその記憶がないのですが、お姉さんの首筋に火の粉が飛んできて、小さな火傷痕がずっと残っており、お父さんにとっての戦争の記憶はそのお姉さんの火傷痕だとおっしゃっています。
防空壕はぎゅうぎゅう詰めで、赤ちゃんだった弟を背負った年若いお姉さんはその中に割り込むことも出来ず、火傷を負っても赤ちゃんと一緒に川に飛び込むことも出来ず、走り回って逃げて行ったそうですが、その防空壕にいた人は全員亡くなり、川に飛び込んだ人も多くが亡くなったと聞いて、「お父さん」は、お姉さんの火傷痕を見るたびに「この火傷痕が自分を生かしてくれた」と手を合わせるそうです。
8月半ばにメディアが「戦争」特番を放映することが、この季節のひとつの約束事のようになっていますが、「お父さん」にとって、お姉さんの首に残る火傷痕は、季節の約束事ではなく日常だったんだと思うと、先日生まれたお孫さんたちにも「戦争」が日常にあったことを語り継いで下さい・・・とお願いしました。

投稿者 Fukusuke55 : 2009年08月16日 09:53

昭和19年の11月に学童疎開先で発病して帰京、20年3月10日の翌朝家族と父の郷里の香川県観音寺に縁故疎開をするために東京駅から出発しました。駅は無事でしたが途中まだま燃えているビルも見えました。途中名古屋の大空襲のため、笠寺という駅から、焼けたばかりの名古屋の街を歩きました。「周りを見ないで1まっすぐ前だけ見なさい!」と母に言われても焼け焦げた死体や呆然と立っている人を見て泣きながら歩きました。名古屋駅で「子供が疲れているから一晩大阪の義兄さんの家に泊めてもらおう。」という母の言葉を父が断固反対して観音寺まで直行しましたが、その晩大阪の大空襲で天王寺の伯父の家は全焼、伯母は亡くなりました。誰もかれも生死の境目で生きてきた時代です。孫たちのために書き残すべきでしょうね。

投稿者 隅田の花火 : 2009年08月16日 11:39

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