トップページ > 茸と生ハムのオムレツ
2007年01月12日
茸と生ハムのオムレツ
QPで見た料理。QPの陰謀で(笑)茸と卵をマヨ炒めさせるのがポイントだ。卵には牛乳とパルメザンチーズを加えて塩胡椒で調味。茸はニンニクのみじん切りと一緒にあらかじめマヨ炒めしてから半熟状態の卵焼きに加える。最後に生ハムをトッピングして火を止めてから少し蒸して仕上げる。マヨネーズを使うので塩は控え目にしたほうがいい。
きのう見た『MANSAI解体新書Vol10』に関してはゲストのコロッケにしか触れなかったが、毎度このトーク・ショーのゲストには「カブト虫のアフォーダンス」先生のようなフシギな学者センセイも招かれることになっていて、今回はわりあいまともなロボット工学の池内博士だった。まともいってもロボットに民謡の会津磐梯山に合わせて踊らせる研究をしている人で、ロボットが何度もコケながらようやく会津磐梯山が踊れるようになるまでの過程を映像で見せられて、やはり何かもうちょい気の利いたことをさせればいいのに(笑)と思ってしまったのであるが、この池内先生の発言で一番面白かったのは、ロボットがなんとか踊れるようになった現在、次に自分たちがやりたいのはロボットに「もっと巧く踊りたい」という欲求を持たせることだという話である。観客の皆さんはそうカゲキに反応なさらなかったが、私はええっ!と驚いたのである。それってスゴイことじゃありませんか。
そもそも食欲も性欲もないであろうロボットに、巧くなりたいという欲求が生じるって一体どういうことなんだろう?と私は大いに考え込んでしまったのである。そういうことも確かにあり得るのかもしれないと思うのは、目下私は2月下旬に刊行する『吉原手引草』のゲラ直しをせっせとやっていて、この文章を直したいという欲求は自らの生存に深く根ざした欲望とそんなに深くつながっていないような気がするからである。正直言って、ゲラを多少手直したところで、本がスゴク売れるようになるわけでもないにもかかわらず(笑)、私はこの原稿の手直しというのが昔から大好きで、直していささかなりとも巧くなることに純粋な歓びを感じるのだけれど、それって別に誰かにわかって欲しいという気持ちも全然なくて、独り悦に入ってるだけの話なのであった。で、文章とか絵画とか音楽とかやってる人って大概こうしたパターンなんじゃないかと思うわけであります。果たして「巧くなりたい欲求」を持つロボットなるものが出現したときに初めてこの欲求が人間の何に根ざしているのかが解明されるのでありましょうか。
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kesako.jp/cgi-bin/mt/mt-tb_kesako2.cgi/290
コメント (2)
ロボットにとっての「巧い」ってどういうことなのでしょうか?
この公演、見に行きたかったのに取れませんで残念、このことだけでも教えていただけると嬉しいです(^^ゞ
文章や絵画や音楽なら自己表現として、やる側が「こうありたい」っていう思いをちゃんと持ってると思うんですけど、ロボットの場合も「こんな風に踊りたい」というイメージを持ってからということになるんでしょうか。
ということは、まずロボットに価値観をもたせるということになりますよね…人間でも価値観を見失いやすい今日に…なんだか壮大かも。
投稿者 猫並 : 2007年01月13日 09:28
>ロボットにとっての「巧い」ってどういうことなのでしょうか?
現段階だとまだなるべく人間と近い感じに滑らかな動きを見せるというレベルなんでしょうが、絵画に黄金分割という考え方があるように、踊りにも手足の位置や動かし方がその個体にとって最も美しく見えるカタチというものがあるとする考え方に基づいて、ロボットにはそこを狙わせるのがよかろうと思います。むろん人間も「古典」の場合は本来はそこを目指して訓練を重ねるわけですが、人間はそれが完成に近づくとすぐに崩しにかかる、つまりはバロックする傾向が個人レベルでも時代感覚のようなものにでも抜きがたくあるような気がするので、近い将来ひょっとすると古典芸能などの伝承はロボットにお任せしたほうがはるかにきちんとしたカタチで残せるはずです。ただしロボットでそんなものを残すことにどんな意味があるのかといわれたら、ちょっと首をかしげるところですが(笑)
ちなみに価値観が揺れるのは現象面に目を奪われすぎるからで、ことに消費社会の今日はその傾向が著しいといえるわけですが、現象を超越した「イデア」の想定をしない限り、上記の「古典」という考え方は成り立ちません。
投稿者 今朝子 : 2007年01月13日 22:21
