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2006年10月28日
砂肝とクレソンのホットサラダ、季節野菜のココット、ポルチーニと豚頬肉のキタッリ、ゴルゴンゾーラのペンネ
青山銕仙会能楽堂で中村京蔵の自主公演「山月記」を塚田さんと一緒に見て近所で食事。
中島敦の「山月記」は誰しも若い頃に一読して妙に感動してしまう短編小説であるような気がするが、果たして年を取ってから初めて読むと一体どんな風に読めるのだろうか?と以前、野村萬斎作の「敦」で父万作が主人公の李徴を演じたときにも思ったのだった。ということは、要するに野村家の上演も今回の上演も私はあまり感心できなかったのである。
そもそも原作自体が近代青年の若書きであるゆえに、ある程度年を取った現代人が接すると気恥ずかしくなるほどシンプル且つストレートなメタファーとして読めてしまうところに問題があるのかもしれない。それでも文字で読めばかなり空間的にイメージが広がるのだが、如何せん、舞台で聞いてこちらに伝わる文章だけだと、理に落ちた説明的な言葉だけが耳に立つという難が覆いようもない。かといって原作に忠実な台本が悪いというのではなく、そもそもこの文学作品を舞台化すること自体に難しさがあるのだろうと思う。大変にドラマチックな不条理を孕んだ内容だし、読めばとても映像的にも感じられるのであるが、それはあくまでも文字が喚起したドラマ性であり、映像性であることを忘れてはならない。文学作品には意外にこの手のものが沢山あって、読んでるとその舞台や映画が素人でも目に浮かぶのに、実際に舞台化や映画化するとひどくつまらない仕上がりになってしまうのだ。三島由紀夫の小説作品なども割合この手が多いように思う。
今回のスタッフ組はけっして悪いものではなかったし、原作に忠実な台本を活かした義太夫の節付けやガムラン楽器の効果的な使い方、能舞台を損なわずに立体的に見せた照明など、2ステージの自主公演としては勿体ないほど細部に渡って仕込みに神経を払った点は高く評価できる。また助演の狂言師高澤祐介も当を得た人選だった。
ただ文句をつけたいのは肝腎の京蔵である。これは友人として敢えて申しておく。京蔵の演技は李徴の気持ちになろうとする意識ばかりが目についてしまう。演じるためにまず人物の気持ちになるというのは素人でもする役作りだが、歌舞伎の演技術を身につけた俳優がへたにこれをすると非常に大味でリアリティに乏しい演技に見えるということを、もういい加減自覚すべきだろうと思う。これは京蔵に限らない。時に勘三郎でも同じことがいえそうだ。
俳優に必要なのは役の気持ちになることだけではない。むしろ役の気持ちになろうとするところは決して見せてはならないはずだ。初めからその人になって見せられるのが本当の俳優なのである。この点において、歌舞伎に限らず古典劇から出発した俳優はもっと自覚的に且つ謙虚であってほしいと私は常づね願っております。
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コメント (2)
今朝子さん、こんばんは。
私も「中村京蔵創作の夕べ」の19時の部に行ってきました。素晴らしい舞台でした・・・と言いたいところですが、素晴らしい景色の素晴らしいレストランで”メイン・ディッシュ”抜きのフルコースを頂いた気分で、この2〜3日は釈然としない日々を送ってしまいました(大袈裟ですが)。
中村京蔵さんほどの舞のテクニックをお持ちの勉強家なら、語りは竹本東太夫さんにお任せして”全編を舞で表現して”欲しかったな〜と思いました。
でも、これはこれで新たな試みであったと感じますし、次の舞台が楽しみになりました。
投稿者 中村屋ダン之助 : 2006年10月31日 22:40
>素晴らしい景色の素晴らしいレストランで”メイン・ディッシュ”抜きのフルコースを頂いた気分で、
これはまことに言い得て妙だと存じます。
>語りは竹本東太夫さんにお任せして”全編を舞で表現して”欲しかったな〜と思いました。
たしかに、この手もあったかも。
とにかく上品にまとめた舞台だけれど、見ていて物足りなさが否めませんでした。京蔵自身の良さをもっと発揮して欲しかったと思います。
投稿者 今朝子 : 2006年10月31日 23:51
