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2006年10月13日
書く女
芝居に関しては明日改めて書きますなんていいながら、結局コーフンして寝られないのですぐに書くことにしました。私もまたある意味で「書く女」の端くれなのでありましょう(笑)。
恐らくどんな作家でも、その人にとって書くべき作品というのが必ずあって、それはたとえ完成度が低かったり、かりに失敗に終わったとしても、その人が書かなくてはならないものだということが自身にも他人にもハッキリとわかる気がするのだけれど、今回の作品は永井愛にとってその「書くべき作品」だったように思われる。ただし本人が最初からそう思ったのかどうかがわからないくらい、出だしはスピーディな商業演劇を見ているような凡庸さが感じられ、1幕の後半に至ってようやく永井愛さんの持ち味が出てきたという気がした。これは作全体のテイストやメジャー感の出し方について迷いがあったというよりも、この作家がもともと体質的にスロースターターなせいかもしれない。
で、ひと口にいってこれは樋口一葉の「評伝芝居」である。同じく一葉を描いた井上ひさしの「頭痛肩こり樋口一葉」とは全く異質の芝居で、「書く女」というタイトルが示す通り、ここには女が物を書くとは一体どういうことかについての考察が樋口一葉の作品をひとつひとつ論じてなされるというユニークな戯曲で、私が「評伝芝居」と名づける所以でもある。従って純粋に演劇的に優れた作品かどうかについては異論もあろうが、観客は永井愛が読み解く樋口一葉像を通じて物書き永井愛自身を知ることにつながるという点で頗る面白い作品なのだ。
彼女の師匠として後世に伝わる半井桃水、シニカルな毒舌の評論家斎藤緑雨、後に英文学者として知られる平田禿木、翻訳家の馬場孤蝶、閨秀作家の先駆田辺花圃といった周囲の文人も登場するが、永井愛はそれらの作品にもしっかりと目を通しており、中でも特筆したのは半井桃水の作品だ。これまで半井桃水といえば色男の遊び人でただの堕落した通俗作家のようにしか扱われてこなかったが、永井は旧対馬藩医の息子である彼と朝鮮との関係に注目し、埋もれた彼の作品に改めて光りを当てることによって、軍国主義に突き進んだ当時の世相と現代ニッポンの危険性を重ね合わることに成功した。
また一葉との関係を異様なまでにピュアな感じで描いた点もこれまでの桃水像とは180度異なり、筒井道隆というピュアなだけが取り柄のような大根役者にこの役を演じさせて、妙なリアリティを持たせている点も面白かった。筒井は数々の舞台をこなしてきたが、私も岡本螢も今回が一番ましだった(笑)ということで意見の一致をみた。
「書く女」はもはや「女」ではないとするのは永井愛の主張というよりも「告白」であろう。一葉にとって桃水は恋人ではなく、恋を書こうとする彼女の妄想の対象でしかないのだった。さらに一葉は「熱涙」を持って愛を描いたように読ませながら、その裏に「冷笑」を潜ませて、男社会に対する巧妙な闘争を企てていたのだと、フェミニズム闘士の永井愛は読み解くのである。いっぽうで裕福な父を持ち、高名な夫三宅雪嶺に嫁した閨秀作家の田辺花圃は所詮、父や夫の掌で遊ばされている存在でしかない。父を早くに亡くし貧窮のどん底で戸主として母と妹を養わねばならなかった一葉は、男社会の価値観に支配されなかった唯一ホンモノの女性作家であるという描き方もまた永井愛ならではだろう。
作家が他の作家を描けばそれは自己を語ること以外の何ものでもない。この作品で永井愛は劇作家としてはギリギリの限界まで自己表白を果たし、名女優寺島しのぶの好演によってそれが活き活きと伝えられ、素晴らしい舞台に仕上がったのは何よりである。この芝居を見るように強く薦めて下さった内山さんには大いに感謝申しあげる!
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コメント (2)
私も見ました。
単に久しぶりのナマしのぶちゃんが見たかっただけでしたが、お芝居そのものが面白くて楽しめました。
樋口一葉という、ずっと貧乏な上に夭折する人は、薄幸がうつりそうであまりお近づきになりたくない気がするし、文学論や演劇論とは無縁ですが、単純に面白くて衣装や小物も楽しめた、素人にも◎なお芝居でした。
投稿者 猫並 : 2006年10月14日 08:09
>ずっと貧乏な上に夭折する人は、薄幸がうつりそうであまりお近づきになりたくない気がするし、
たしかに(笑)。それにしてもしのぶちゃんは本当に巧い!
投稿者 今朝子 : 2006年10月14日 21:44
