トップページ > 牛肉と大豆の混ぜご飯、茗荷と玉子のおすまし
2006年10月05日
牛肉と大豆の混ぜご飯、茗荷と玉子のおすまし
QPで見た料理。米に酒と昆布を入れて炊く。牛肉を醤油と味醂で煮ていったん引き揚げ、戻した大豆と長ネギの薄切り、茸類を入れて酒、塩少々加えて煮込み、牛肉と併せてご飯に混ぜ込む。ご飯は硬めに炊いたほうが美味しい。
昨日は京都の実家に帰っても親と話した時間はたった15程度だったが、おかしかったのは父親が「あんたのおかけで、わしがこんな招待をもろてしもたがな」と、いささか困惑ぎみに差しだした「香会」の招待状である。
このブログでも何度か紹介した通り、現在地方紙で連載中の『そろそろ旅に』は「膝栗毛」の作者である十返舎一九を主人公にしているが、この人は若い頃に香道を嗜み、「十返舎」の号も香道でいう「十返り」(ふつうの香木は1回だけしか匂いが聞けないが、名香の蘭奢待は10回まわし聞いても匂いが消えずに持続することをいう)に由来するのだと本人自ら語っている。
そんなわけで小説の中にも香道にまつわるシーンを描くために、私は関係書籍にも何冊か目を通した上で、友人のご母堂で香道の師匠をなさってる方に香会の参加をお許し戴いていろいろと教わった。こうした芸事については現在も携わっておられる方が沢山いらっしゃるので、書くときはそれなりに勉強しておかないと恥をかくからだ。ことに新聞連載の場合は別に小説好きでもない人の目にも触れる恐れがあるので要注意だと思われた。
で、案の定というべきか、実家「川上」の古くからのお客様に香道の先生がおいでになって、「お宅のお嬢様は本当に香道がお好きでお詳しいのにびっくり致しました」と感心してくださったのは嬉しいのだけれど、父まで香道が好きなように思われて香会の招待状が舞い込んだというのだからおかしい。まあ、こんなことは笑い話で済むからいいようなもんだが、笑い話では済まないことも起こりえるのが物書きという因果な商売で、実家が客商売であるのは何かと厄介でもある。両親に早くこの世からいなくなってほしいと心ひそかに願っている物書きは決して少なくないだろうなあ、なんて思ったりもした。
連載している地方紙の中に地元の「京都新聞」が入っているのは当然といえば当然なのだろうけど、連載が始まってから、ああ、こんなことならせめてペンネームを作るんだったと私は大いに悔やんだものである。別に小説書きを志したつもりもなく、ただ何げなく書き始めて気が付いたらメインの仕事になっていたという塩梅なので、わざわざペンネームを作るほどのことはなかったし、私自身がイマドキの小説家の名前なんてほとんど知らないくらいなので、本名で書いていても、まあ、だれも気づかないだろうと思っていたが、地元紙の連載はさすがにまずかったようで、中学校の担任の先生から突然お便りをもらってびっくりした覚えもある。ええっ、読まれちゃったわけ、キャー恥ずかしい!という感じで、説明がとても難しい感情なのだけれど、書いた物は一応多くの人に読まれたいという気持ちと裏腹に、書いたのが私だとはあまり人に知られたくない気持ちが非常に強くて、過去の知り合いや日常的に付き合いのある人には特に知られたくない気がする。知ってても知らんふりをしててほしいと思うくらいだ。
私は小説を書く以前に歌舞伎関係で自分の名前を出して仕事をしていたので、名前や顔を露出することに今さら何をためらうのかと思う向きもあるだろうが、小説は今までの仕事と全然別物なのである。これまたイマドキ何も小説を書くことを御大層に考えているからでは全然なくて、小説は妄想を書くわけだから、どんなことを妄想してるのかを顔見知りに知られるのが非常に恥ずかしいからである。要はこう見えてけっこう恥ずかしがり屋で気が弱いのであります(笑)。
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kesako.jp/cgi-bin/mt/mt-tb_kesako2.cgi/190
