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2006年09月24日

五穀米弁当、もっちり豆腐

乗馬の帰りに東横のれん街でゲット。
 これだけ乗馬に通っているとクラブでもさすがに親しい仲間ができる。ひとりは大手企業にお勤めする40代バリバリのキャリアウーマン、もうひとりは30代の美人オペラ歌手で、乗馬を介さなければおよそ知り合いにはなりにくい人たちだし、会うのは週1度、話すのは専ら馬のことばかりという浅い交流をお互いとても良しとしている。
 こうした日常を持ち込まない、君子の交わりは水の如し(笑)といった感じの淡泊なお付き合いはむろん昔からいくらもあったのだろうけれど、近年のストレス社会では多くの人たちにとって必須のものであるような気もする。会社や学校に身を置く私は所詮世を忍ぶ仮の姿で、周囲とはおざなりな付き合いしかせず、むしろ趣味やブログを通してのほうが本音付き合いができる人も今は珍しくないのだろう。
 で、これは恐ろしいことに何も社会人にかぎった話でもなくて、今や子どもたちの交友関係も私たちのころとは著しい変化を遂げているらしい。たとえば一緒に勉強をする友だち、買い物に行く友だち、映画に行く友だちが全く別人で、私たちの子どもの頃のようなトータルな親友は皆無だし、極端な話、同じ学校の仲間とは学校以外ではシャットアウトしているという話を、私はひとり娘を持つ友人とひとり息子を持つ妹の双方から聞いた。
 とにかく学校は子どもたちにとってストレスの温床以外の何ものでもないらしく、ちょっとでも目立てば足を引っ張られるからなるべく目立たないように息をひそめ、ホントのことはだれにもいわないようにしているのだと、中学で学級委員を務める息子は母親にいったらしい。とくに学級委員をしてると気疲れが激しいので(笑)、学校の仲間とは離れていたいのだそうである。
 子どもふたりが面と向かって実に仲良さそうにしゃっべっているのに、その一方でケータイ使って「こいつキモイぜ」とそばにいる別の子にメールするなんてのはしょっちゅうらしいから、子ども同士は確かにだれにもホントのことはいえないのかもしれない。
 この種のことは何もイマイマ急に始まったわけでもなさそうで、徐々に深く進行した病理現象とでもいうべきだが、政治家たちが今さらいくら教育改革を叫ぼうが、愛国心を求めようが、こんなふうになってしまった子どもたちの心にはもはや届くわけもなく、ただただウラオモテ度の指数とアイテムをUPさせるばかりではなかろうかと思う。
 教員査定をして学校間競争をさせて学力向上につなげることが教育改革だとする浅はかな政治家をカッコよくてステキ!と持ちあげて総理大臣にまでしちゃった世のお母さま、おばさま方は一体こうした事態をどうお考えなのかよく訊いてみたいところであります。


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コメント (4)


姪が都内公立中学に通っております。まだ中学1年、中学の勉強が始まったばかりで、易しい勉強なのに、もう落ちこぼれがいます。
それも半数近いというじゃありませんか。教科書の中身なんて、ゆとり教育のおかげでスカスカなんです。これじゃ、まずいでしょというお粗末さ。塾産業が流行る訳です。科学と学習で有名な学研も少子化のせいもあって科学、学習の売り上げが落ちているので、本格的に塾産業に加わろうと桐杏学園という幼児塾の名門を買収したとか。少子化ではありますが、塾産業はまだまだ需要があると伸びる傾向にあります。学校は出来る子半数、出来ない子半数。中間は5〜6人くらいとか。中間に5人もいるのなら半数ではありませんが、出来る子、出来ない子の二層構造です。これらの子を一緒にして授業するのですから、出来る子は学校以外で学力をつけるしかない。小学校4年くらいまでなら、学校は友達と仲良くする場所でかまわないと思いますが、中学で学力をつけてもらわなければ、松井先生の憂いておられる日本一億総痴呆化は現実問題になります。教育で子どもを平等にの理想、加えてスカスカ内容の教科書の結果が、学校では学力はつけられないところまできてしまった。学力については最低の学校教育環境ですから、もう何もせずより何かしてみてくださいって思います。

投稿者 バルサミコ : 2006年09月25日 13:45

>早速ご投稿戴いてありがとうございます。私は子どもがいませんが、最近の教育の中身が本当に薄くなった結果、子どもは塾通いせずにはいられなくなっており、そうなると家族と過ごす時間も睡眠も少なくなるので、むしろ昼間の学校がなくなってくれたほうがはるかに有り難いというような話を妹から聞いた覚えもあります。
 ですから現実問題として、バルサミコさんの仰言ることは実によくわかるのですが、その一方で、今の子どもが勉強しなくなったのは、2つの意味で勉強をしてもしようがないと思ってるからであり、そこをなんとかしないと結局のところ根本的な解決には至らないと思うのです。
 勉強してもしょうがないと思う子が多くなった1つの理由は自分なんかがやっても所詮……という気持ちが私たちの子どもの頃よりずっと早い時期に訪れてしまうことの問題だと思っています。私たちの子どもの頃は受験といえば大学だったのに、いつの頃からかどんどんそれが若年化して、いい高校、いい中学、いい小学校、さら極端にいえばいい幼稚園に入らないと先が見えないとまでいわれだした時代、早い時期に振り落とされてしまったら、自分なんかが……と思う子が増えたって仕方ない気がするのです。もちろん全部が全部そういうふうに諦めてしまう子ばかりではないにしても、格差社会も同じことで、最初から努力してもたいして報われないと知ってやる気になる人間は少ないでしょう。つまり私は競争的な教育加熱が逆さまに勉強嫌いの子ども増やしてしまったのだと主張したいし、それは教育産業にうまく煽られ操られた親たちの責任が非常に大きいのと、社会構成の上である時期に自営業者がどっと減ってしまい、結果いい学校を出ていい会社に勤めるという以外の人生の選択肢が減ったのも大きく作用していると考えています。
 もう1つの理由はこんな勉強して何になるの?ということを思ってしまうからで、人間はそれが自らの生にとって本当に必要であり、尚かつ生きることの勘がくるってなければ、放っておいても学ぶでしょう。私たちが子どもの頃はそれでも情報量も少なかったから、微分積分なんて何になるの?と思いつつも学んでしまったのですが、今の子にそれを求めるのは土台無理な話で、もし彼らがそれでも勉強を続けているとすれば、純粋にそういうことの好きな変わった子を除いて、こういう意味のない勉強でもそれをすることが社会的地位につながるならやっておこうというくらいには冷めているはずです。
 情報量が増えたことのほかにも、世の中の変化が激しすぎて今必要な勉強でも先に必要かどうかは全く見えないという点が大きくて、たとえば私の頃は計算尺を使った授業がありましたが、今はこの種のいずれ消えてなくなりそうなものが山のようにあるものと思われます。
 大変に冷めたいい方をすれば、今の子どもたちが勉強しなくて困るのは、私たちオトナだけなのかもしれません。親の世代が物識らずの子どもにアタマに来るのは、自らの文化を共有してくれないとコミュニケーションが取れないと感じるからで、ヘンな話、私は若いころ古典芸能を専門にしていたので、同様のアタマにき方を同世代の多くに感じていました。なので、まあ、そうしたことの幅が非常に拡大し普遍化したのだろうと捉えています。
 引っ越すときに多くのモノを処分してしまうように、恐らく人類は次なる段階に至るために今後多くのモノを捨ててしまうでしょうから、私たちが大切にしてきた多くの文化も二束三文で捨てられてやむなしと思いつつ、でも過去の文化のいくつかが残ったのは何故かと考えたとき、私はもう近代の学校教育では伝えることは無理で、これを残したいと考える人が切実な思いを込めて直に次の世代に伝えるしかないのだと考えてしまいます。
 で、それとは別に息子の将来を心配している妹によくいうのは、たとえばクラスに40人いれば、勉強ができるとか、スポーツができるとかでなくても、その中で自分がどんなスタンスで生き残れるかを、子どもは子どもなりの勘でつかむはずだし、とにかくその勘さえ備わっていれば将来はそう心配しなくていいのではないかということです。
 子どもたちに言いたいのは、いずれ先に死んじゃうオトナなんかどうでもいいけど、これから先の大変さを共に乗り切っていかなくちゃならない同世代の人間ときちんとしたコミュニケーションが取れなくてどうする!ってことです。仲良くばかりする必要はないけど、同世代のだれもがお互いに本当に信じられなくなったら、人類は確実に滅びます。

投稿者 今朝子 : 2006年09月25日 21:28

ある日、テレビで「いい教育を受けさせ、苦労なく人生で成功できるように今から出来るだけの手助けをしてあげたい」と真面目に話す幼児の母親に驚きました。苦労なくして成功はあるか!!! 今の子どもの不幸は放っておかれない悲劇でしょう。「>いい高校、いい中学、いい小学校、さら極端にいえばいい幼稚園に入らないと先が見えない」と母親を脅しているのが今の教育産業です。塾、通信教育のセールスはもう「押し売り」です。相手が化粧品をすすめるように勉強はまず基礎が大切(化粧品はまず洗顔からと同じ)、他社との比較も保険のセールスと同じように特典と値段の説明をしているのに、母親たちは商品が「教育」ということだけで騙されています。セールスの基本は脅しなのでしょうか。教育という商品を売るために様々な不安を親たちの頭に描かせるのが手口です。子を持つ家庭には電話、郵便物、さらに訪問販売が断っても断っても、読売新聞のセールスのように次々とやってきます。私たちの親は勉強は学校に任せきりでした。ところが、今の親は教育改革の失敗により学力をつけられなくなった学校に子どもを任せられない。そこが弱みです。神保町にある出版社が先日SAKURAという母子のためのファッション雑誌を出しました。他社でも今年ファミリーを意識した男性ファッション誌を創刊。昨年までは父親参加型の子育て雑誌の創刊が目につきましたが、とうとう今年はファッション誌です。そこまで大人は子どもにつきまとうか、とは言い過ぎかもしれませんが、大人達の子どもへのかまい過ぎの結果が、今の子ども達を弱くしてしまったのではないでしょうか。弱くなりきちんとしたコミュニケーションが取れない子ども達を作った責任は、子どもにビジネスチャンスありと食いものにしいる私たち世代にも責任があると考えます。

投稿者 バルサミコ : 2006年09月27日 11:03

>子どもにビジネスチャンスありと食いものにしいる私たち世代にも責任があると考えます。
 仰言る通りだと思います。今や消費のターゲットにされているのは人間の子どもからペットにまで及び、犬にシーズン毎のファッションアイテムがあるは、飲料水まで犬、猫用、ウサギ用、フェレット用等々各種取りそろえてあるのには驚きのほかありません。 
 古代の奴隷や近代の労働者は生産を通じて搾取される存在でしたが、現代人は過剰な消費を強いられる奴隷だ定義づけても過言ではなく、やはり弱者の子どもたちに一番そのしわ寄せがいくのでしょう。一見なんの不自由もなく贅沢に暮らせるところに現代版オリバーツイストの悲劇があるように思います。
 ただ近代の子ども搾取に終焉が訪れたように、いずれ時代は移り変わって、現代の過誤が糾弾される日もまた来るはずだと信じるしかありません。いたずらに保守反動に走って時代の流れをむりやり喰い止めようとするのは愚かしいことであるのは歴史が証明しております。高度資本主義を超克し、消費奴隷社会の枠組みから脱せる子どもを育てることこそが、私たちオトナの使命ではなかろうかと私は考えております。

投稿者 今朝子 : 2006年09月27日 23:36

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