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2006年09月22日
梅冷やしそば定食
シアタートラムで「エンドゲーム」を見る前に近所で食事。
キャパ200の小劇場で且つ招待日とはいえ、最近だとこの手の芝居で客席が満員であること自体わたしはちょっと意外な気がするほどだったが、これはひとえにキャスティングの妙に惹かれた客が多かったせいではないかと思う。まず、わたし自身がそうだった。
で、満員の観客もこの手の芝居だから非常にコアな演劇ファンと思われ、文芸の世界にたとえれば、ひところの「新潮」や「群像」の読者であって、けっして「オール読物」は購読しなかったであろう人種である。これをあくまで過去形で語るのは、現在の読者層がどうなってるかわからないためと、きょうの客席がかなり高齢者で占められていたことの双方によるもので、実はこれが日本の文化状況を語る上でけっこう重要な点だと考えられるのである。
なにせ高齢者だから、開幕してからすぐに寝始めた人の多いこと、多いこと(笑)。なぜそれがわかったかといえば客電(客席の照明)を消さない演出だったからであるが、わたしのお隣なんて名のある演劇評論家で、しかもどこかに劇評を載せるつもりなのだろうと思うが、しっかりメモを取りながら見ておられるのに、メモをしないときはずっと寝ていて、後半は起きていても椅子を揺らしてのたうちまわるぐらいに苦痛を覚えておられた様子で、人間年を取ると、この手の不条理演劇とか純文学とかを楽しむだけの体力と知能に乏しくなるのは如何ともしがたいのである。だからこそ若年層の知的劣化が深刻な問題になるわけで、この分だと一億総痴呆状態も時間の問題という感じだ。
ともあれ私自身も途中かなり眠気を覚えて苦痛を感じたことはたしかで、それについて年齢以外の理由も少しばかり考えてみた。
まずこの作品はベケットの中でも「ゴドーを待ちながら」とよく似ていて、敢えて簡単に言い切ってしまうと「人生は死ぬまでの暇つぶしだ」ということをふたりの男の無意味なやりとりで延々と見せられる芝居だが、「ゴド待ち」が牧歌的風景の中で展開するのに対し、これは地球滅亡後の核シェルターのような密室で繰り広げられるために人類の終末をも濃厚に予感させ、さらには舞台に登場するもうひと組の男女がゴミ箱に捨てられた老父とその愛人(?)という設定でより現代的なテイストに仕上がっているから、上演企図は理解できなくもない。
しかしながら実際に上演を見れば、初演当時は非常に前衛的且つアグレッシブに感じられたであろうベケットの不条理観や終末観も、今やだれだってこんな風に感じてんじゃないの?といいたくなるのだった。結果、前衛はやはり同時代に見てこその前衛であるということを改めて痛感させられた次第だ。
もっともそんなことは見る前にわかってるはずじゃないかといわれそうなので、なぜ見たかという点に触れておきたいが、80年代小劇場を代表する奇優の柄本明、まさに世紀末演劇を代表する若手奇優の手塚とおる、そして懐かしの新劇を代表する奇優の三谷昇、この3世代3人のグロテスクな男優のぶつかり合いを見たさに私はわざわざ劇場に足を運んだのである。
結果、スゴイと思ったのは三谷昇で、そもそも新劇で鍛えられた舞台人のテクニックは舐めてはいけないということも今回あらためて感じた。不条理劇のセリフは意味不明であるがゆえに、俳優がコトバひとつひとつをきちんと伝えられないと芝居全体が流れてしまう。意味不明のセリフをなんとか意味をたどろうとして集中して聴くところに不条理演劇を観る醍醐味があるのであって、セリフはけっして聞き流していいわけではないのに、私が集中して聴けたのは三谷昇ただひとり。手塚とおるは単調で退屈するし、柄本明は野放し状態でかつての「東京乾電池」のパワーダウンを見せられた感じだった。
ベケット劇は一時なんとなくボードヴィル風にやるほうがいいように思われてコメディアンもやったりしたが、今の時代ならかえって昔の新劇風に大マジでやったほうが面白く見られはしないだろうか、なんて考えたりもする。もっともそんなに巧い新劇俳優なんてもはやほとんどいない状態だけれど、いっそだれか仲代達矢と平幹二朗共演の「ゴド待ち」なんて企画しないだろうか。それなりに話題になってお客が入るように思うんですが、ただダレも猫の首に鈴がつけられないのかもしれません(笑)。
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