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2006年09月06日
オムそば
帝劇で森光子の『放浪記』を観た帰りに銀座マツヤでゲット。
皇室に久々の男子誕生というニュースでマスコミ各社が伝えるほどに世間が沸き返っているのかどうかは知らず、私はとにかく今日86歳の現役女優が1801回目のデングリ返りするところを見に行ったのだが、年配のご婦人方で超満員のロビーでは意外にも皇室関係の話題は全く聞かれなかった。
ともあれ『放浪記』は10代後半か20代のあたまに1度見たきりで、たぶんこれがもう見納めになりそうだから、東宝のご招待に有り難く応じる形で、今日は仕事を午前中に切りあげて劇場に向かった。小説や映画などとは違って、舞台はその時を見逃したら人生で二度と見るチャンスは来ないからである。
一番の感想はただひと言。森光子は化け物である(笑)。
数年前、読売演劇賞のパーティでご本人の素顔を間近に拝見したときは肌の美しさに驚いた憶えがあるが、声も若くて昔とちっとも変わらない。でんぐり返りもさることながら、劇中の動きが相当に激しくスピーディなのを一見そう無理なくこなしている。喜寿を迎えるわが母親と比べて同じ人類とは思えない86歳なのだ。芸人は長生きも芸のうちというが、この人や中村雀右衛門には本当にそれを強く感じる。私が子どものころは決して大女優と呼ばれる存在になるとは思えなかったし、純粋に俳優として見たときは演技力が当時からさほど向上したわけでもない人だけれど、舞台人としての肉体をこんなに長く維持したことだけでも十分文化勲章に値します!
ところで久々に見た『放浪記』だが、林芙美子の半生をモデルにしたこの芝居こそが、私の中で女流作家のイメージを決定づけたのだと今回改めて認識できたのも面白かった。
私は作家になりたいと思ったこともなければ、今も別になっている気はしないというようなことをこのブログにも書くし、担当編集者の方々にも話すのだが、それは別に照れとか衒いとかでは全然なくて、私は女流作家に落ちぶれるほど不幸な目に遭った覚えはありません!と言いたいつもりであるのが、この芝居を見たらご納得戴けるだろうと思う。半世紀のあいだに女流作家というものがどれほど変わったかを知るためにも、入手困難なチケットでなければ、若い作家や編集者の方にはぜひともご覧になって下さいといいたいところだ。半世紀後には決して残りそうもない今どきの流行作家とは不幸の質も成り上がり度のレベルも全然比較にならないのがおわかりになるだろう。
脚本を書いた菊田一夫は林芙美子の若いときからの知り合いだったし、自身もまた苦労して成り上がった物書きだけに、当時の物書きの生態をかなりのリアリティをもって露悪的なまでにしっかりと書き込んでいる。芙美子ばかりでなく彼女を取り巻く物書きの群れが男女共になんともおぞましく描けていて、私が作家を個人的にはほとんどだれも知らないくせに、どういうわけか絶対にお近づきになりたくないと恐れている(笑)のは、若い頃にこの芝居を見たせいだったのだ!とようやく気づいた。
現代の「格差社会」とは比べものにならない戦前の日本全体を覆う貧しさの中で、林芙美子が貧しさゆえに浅ましくもなり、その浅ましさを自ら晒して生き抜く物書きの業の深さをしっかりと見すえた、これは商業演劇にしては意外なくらい辛口の脚本なのであった。同じく林芙美子を描いた井上ひさしの『太鼓たたいて笛ふいて』が正直いってどこか隔靴掻痒の感をぬぐえない作品だったのに対して、こちらはむろんエンターテイメント性を優先させつつも、そこに彼女のヴァイタリティーや毒気や哀しさや美しさがはるかに生々しく感じ取れるのは、菊田が直に芙美子を知っていたことと、同時代の空気に肌で触れていることが何より大きいのだろうと思う。
『太鼓たたいて』で林芙美子を演じた大竹しのぶがこの脚本で演じたら、どんなに風になるだろうというようなことを私はつい考えてしまった。大竹は森光子よりはるかに巧く演じるに違いない。けれどとても嫌みな感じの芝居になって、商業演劇としてこんな超ロングランを記録するほど観客から愛される芝居にはならないのではないか。ひょっとしたら、森光子という女優は何をやっても同じ棒調子の下手くそなせりふまわしであり、ただ陽気で可愛いだけの演技をしていて、共演者も全部そうしたレベルに合わせた薄っぺらい演技に徹しているからこそ、この辛口の脚本が商業演劇の観客に通用したのではないか。なまじ本格リアリズムで上演されたら辛くて見てられない芝居だという気もする。これは皮肉でなく、何が幸いするかわからないのが、何人もの人間が集まって作る舞台の面白さなのであった。
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