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2006年08月15日
お茶漬け
天罰てきめんというべきか、このところの過食が祟って体重が大台を1kgオーバーしたのと、昼ご飯を食べ過ぎたので、今晩はコレ。
ああ、とうとう行っちゃったという感じで、今日のTVは朝からずっと小泉首相の靖国参拝問題を取りあげている。あの手の目立ちたがり屋さんを懲らしめるのは無視するのが一番なのを、マスコミもわかってはいるのだろうが、いいネタになるからつい騒いでしまうという悪循環で、結局してやられているのだから情けない話である。もっとも、そんなわけで、このブログでも再度触れないわけにはいかなくなった。
靖国神社が戦没者の遺族にとって大切な祈りのトポスであることは私も十分認めていて、それは8月4日のエントリーで触れたからここでは繰り返さない。今日は小泉を初めとするさまざまな人が「日本の文化」という言葉をさかんに口にするので、時代小説を書く者の責任を大上段に振りかぶって、日本文化としての靖国神社とは何なのかという私なりの認識を書いておこうと思う。
そもそも日本の神社は「氏神系」と「産土系」と「御霊系」とに大きく分けられると思うが、靖国神社は御霊系に属するようで、それは自らの祭礼を「みたま祭り」と称していることからも明らかであろう。御霊神は菅原道真が天神様になったのが典型的な例で、怨みをのんで死んだ者が尋常でない祟り(つまりは当時の人智を超えた自然災害や疫病)をもたらしたときに、その魂を鎮めるために祀って神とされたのである。日本の文化で御霊神として祀られるのは、体制に反抗したり犠牲となって怨みをのんで死んだ人に限るのが原則で、そうした原則に立ち帰れば、靖国神社がGHQに殺されたA級戦犯を祀りたいとするのはある意味で当然なのだろうと思う。むしろA級戦犯だけ祀っていれば一番自然な気がするくらいなのだが、問題はそうではないから厄介なのだ。
ふつうの人が死ねば仏になるという考え方はあったとしても、神になるというような思想や文化は日本人には本来なかったといってもよい。明治維新の際に国事に奔走して志半ばに斃れた志士たちを慰霊する目的で「招魂場」なるものを発想したのは長州藩の人びとであり、それが次第に全国に広まって、東京ではかつて旗本屋敷が密集していた土地を焼き払って太政官政府が招魂社を築いた。これはたかだか130年ほど前の出来事に過ぎない。皇紀2600年とはいわないまでも、日本国の歴史は1500年前くらいにまでは遡れるのだから、断じて明治以降の浅い歴史だけで日本文化を語ってはなるまい。
靖国神社に限らず、古くから存在する神社にしても、明治以降と以前とではまるで様相を異にすることもまたしっかり把握しておく必要がある。以前の神社は神仏混淆によって寺院の陰にある隠花植物のような存在だったのが、廃仏毀釈によって表舞台に躍り出た。廃仏毀釈は徳川政権と密着した仏教寺院のいわば既得権益を奪う構造改革だったわけだが、それまで日本人の拠り所だった仏教に代わって新たな国民宗教が必要とされるなかで、天皇家のいわば氏神を中心に置いた国家神道がでっちあげられていったのである。しかし国家神道は一気にできあがったわけではなくて、むろんそれ以前の国学による地ならしも無視できないが、それよりも天皇制と同様に徐々に堅固で揺るがしがたい雰囲気がつくり出されていったことの怖さを知っておく必要があるだろう。
明治初期の神社がまだどんなにいい加減な存在と見られていたかという点について、私は東京日日新聞という比較的体制寄りの新聞を読んでいて、あるとき衝撃の記事に行き当たった。それは米国に留学している12歳の少女津田梅子(ご存じ津田塾女子大の創立者)が明治8年に親に宛てて書き送った手紙を末松謙澄が紹介するかたちを取ったものである。彼女は手紙の中でアメリカにおけるキリスト教の教会が如何に地域にとって重要な役割を果たしているかを説いた上で、日本には神社の土地がたくさん余っているからなんとそれを全部キリスト教の教会にすればよいと書いている!彼女が書いたことよりも、これを立派な考えとして紹介した末松謙澄(後に伊藤博文の女婿となる官僚)と、掲載した東京日日新聞の見識から推して、当時の日本において神社というものは所詮その程度にしか考えられていなかったのだという事実と、それがいつの間にか国民を戦争に駆りたてる道具として使われていった恐ろしさを、日本文化を語る上では見過ごすわけにはいかないのである。
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